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●第58号メニュー(2010/10/17発行) |
【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのW) |
〔夢窓疎石(国師)〕(4) 〔恵林寺庭園〕 |
夢窓はこうして2年間円覚寺にとどまり、その間に寺の面目も一新し、もとの隆盛時を取戻しました。幕府の重鎮や裕福な人々からのお布施の金品も、相当なものでありましたが、夢窓はすべて寺の財産としました。その貢献が顕著であったので、「寺の住持には三等(三通り)ある。一には説法の巧みな人、二には衆を輯(あつ)める人、三には修造(社寺などを直し作ること)の出来る人の三通りである。夢窓はこの三つを兼備する人である」と賞賛されました。けれども夢窓は、修造は一向に駄目であると謙遜しています。このことは、夢窓は、僧俗を問わず大きな信望を集めていたことをうかがわせるものであります。このまま円覚寺にとどまっていれば、円覚寺の宗風は大いに振るったであろうと思われます。 しかし、夢窓は元徳2年(1330)9月、56歳のとき、密かに円覚寺を後にし、鎌倉瑞泉寺に逃避しました。それに気付いた円覚寺の僧衆が後を追ってきましたが、門を固く閉ざして会わず、一偈を作って諭しました。 |
聚散因縁皆有自 聚散の因縁、皆自有り、 秋雲出岫(みね)不応遮 秋雲、岫(みね)を出づ、応(まさ)に遮(さえき)るべからず。 道人胸次無胡越 道人の胸次、胡越(こえつ)なし、 地北天南共一家 地北天南、共に一家。 |
(訳 人が集まり、また散ってゆくことには、おのずからそこにはみな因縁がある。秋の雲が 山の頂より高く出ようとしていることを遮ってはならない。道を求めようとする者どうし の胸のうちは、仮に遠く離れていようとも、そこには距離はない。たとえ、どのように離れ ていても道を求める者は、つねに一緒である。) |
次の日の早朝、夢窓は瑞泉寺を発ち、故郷である甲州の牧の荘へと向かいました。帰郷した夢窓は、二階堂貞藤(のちに出家して道薀)の外護によって恵林寺(慧林寺)を創建して、ここに留まりました。 |
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恵林寺の開基は二階堂出羽守貞藤道薀であります。夢窓と二階堂道薀との関係は、大変深く長きにわたっています。甲斐の牧の荘に最初に開いた浄居寺、鎌倉の瑞泉院(現、瑞泉寺)、そして恵林寺は、この二階堂道薀の寄進によるものであります。夢窓には多くの外護者がいますが、二階堂道薀は最も長く夢窓を支えた人でありました。その二階堂家は鎌倉幕府の政所執事を世襲する家柄であります。この恵林寺は、のちの武田氏の菩提寺ともなり、武田信玄の墓もここにあります。この寺の山号を乾徳山と称するのは、夢窓が20歳の頃の修行僧時代に坐禅修行を行った山が乾徳山であったことによります。 この恵林寺に夢窓かとどまっていたのは、わずか一年半ほどであり、その間にも一度鎌倉の瑞泉院(現、瑞泉寺)へ戻っています。正慶2年・元弘3年(1333)3月には、再び瑞泉院へ戻っています。5月に鎌倉幕府が滅んでいることから、この間のわずかな在住期間に伽藍と庭園を造営しています。 前年の春に、古航和尚を招き、『山居十首』をつくっています。その十首のなかに庭師を自認する記述があり、大意をしるすと、「世間を離れて気ままに歩き、いま、自由な時間を過ごしている。私の家風は自由にして開けっぴろげで、奇を求めることなど何もない。お客が来ても法を授けることもなく、ただ、これといって供養して差し上げるものもないが、庭の美しい石や清い水の景色が、まさに心ばかりの供養である」と云っています。 |
織田信長亡き後、甲斐を領した徳川家康により、天正の織田勢焼き討ちを逃れ、那須の雲厳寺に遁れ潜んでいた末宗瑞易を招き、恵林寺の復興に当たらせました。また江戸中期には、徳川綱吉時代に側用人であり、晩年に甲府城の城主となった柳沢吉保・吉里親子がこの寺の大檀越となり、復興整備に努めています。その後、吉里の代に吉保夫妻の墓をこの恵林寺に改葬しています。 しかし、明治38年にふたたび大火が起こり、伽藍は灰燼に帰しますか、幸いにして、開山である夢窓疎石の像は火中を免れ、現在に伝えられています。 恵林寺庭園は夢窓の作と伝えられている池泉廻遊式の庭園であります。庭園の主景を形成しているのが、法堂からの景色となる男滝と、書院への渡り廊下から見た女滝であります。庭園の構成は池泉を中心に、二つの滝と中島などからなりたって、池泉の周りを歩く形式であります。 現在の庭園では法堂の左側に築山が築かれており、また右側にも景姿に変更や新たに手が入ったと思われる景色、さらに池にかけられた二つの橋は、少なくとも桃山期以後、柳沢吉保の時代のものと思われます。このようなことから、庭園の中央より手前側は当初のものでなく、何回かの改造が繰り返された後の姿ということになります。再三にわたる寺の復興や改築によって、建物の位置や、使い勝手による変更がありますが、夢窓の作庭当時の庭園構成は良く残っています。 庭園の中央部分より奥の石組は力強く、しかも品格が感じられます。この石組の力量からすると、夢窓作であることは間違いなく、この石組手法はのちの西芳寺、天竜寺の庭園につながっていくものであります。 夢窓の石の据え方は、立石と伏せ石のバランスが非常によく、どの石も天端(てんば)(石の上部)や石の顔が出るように据えられています。一つ一つ石の表情を丁寧に見ながら組んだものであり、全体の空間バランスをよくとらえています。ただ、西芳寺や天竜寺の庭園に使用されている石のような厳しさはありません。それはこの地方に産出する石の特徴によります。 |
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この恵林寺の庭園は、のちの西芳寺や天竜寺の庭園からすると10年ほど前、夢窓56歳ごろの作庭で、鎌倉末期の夢窓の作風をよく伝える貴重な遺構であります。 夢窓はこの恵林寺において初めて本格的に石を組み、限られた空間のなかに、大自然の豊かさを表現する世界に挑んでいます。これまで夢窓が開いた寺院は、自然が豊かで、美しい眺望と水の条件がよい場所を選んでいます。そのためには自然を上手に取り入れた園内を整備して作庭していますが、この恵林寺では、石を組み、人工造形としての庭園づくりに本格的に取り組んでいます。この恵林寺の庭園は作庭家夢窓にとっても大きな転機となりました。その後、夢窓が住持をつとめる寺が京都へと移っていくのにともない、庭園が人工による空間構成へと変っていきます。 恵林寺で作庭が成功した理由としては、一つにはこの地に良質の石が豊富に存在したことであります。もともとこの地方は、花崗岩をはじめとする火山岩系の石を多く産出します。このことから、庭園に使用する石を手軽に入手することか出来ました。大量の石のなかから形姿のよい石を選んで、禅観を表現する石組を構築しています。 この恵林寺の境内には、永保寺や瑞泉寺のように自然の滝や池、見事な景観もありません。それで、石や木々により、通常の自然とは全く異なる空間をつくり出し、庭を通して別の世界、「悟りの世界」を庭園という立体造形として表現しています。 |
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《月刊京都史跡散策会》【夢窓疎石(国師)の庭園】(そのW) 完 つづく |
編集:山口須美男 メールはこちらから。
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