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【日本庭園の歴史と作品】《パートT》 |
〔はじめに〕≪上古時代≫ ≪飛鳥・奈良時代≫ ≪平安時代≫ |
≪鎌倉・南北朝時代≫ ≪室町時代≫ ≪桃山時代≫ |
≪江戸時代≫ ≪明治・大正・昭和時代≫ |
〔はじめに〕 |
例会催行2百回を数えた≪京都史跡散策会≫では、歴史探訪や寺社探訪をテーマとして、見学や観賞を、また名園、勝地を逍遥しました。そのなかで、特に印象に残る多数の被写体(作品)のなかに庭園があります。お寺の境内にある露地(お庭)や方丈の傍にある枯山水の庭、大寺院の書院の前にある大庭園、縮景を表わした大名庭園などなど、今でも鮮やかに眼前に映し出されます。これらの庭園を改めて見直してみる作業をしてみたいと思いたち、また、庭園をより理解するために、≪庭≫をより知識したいと考えて筆を執りました。 庭園とは何かということを、『広辞苑』(第)で「庭園」を見ると、「観賞・逍遥(しょうよう)などのため、樹木を植え築山・泉池などを設けた庭。特に計画して作った庭」とあります。また、『岩波仏教辞典』には、庭園の定義として、「祭祀・儀式・饗宴・逍遥・接遇などの場として、あるいは観賞の対象として、一定の空間的・時間的美意識のもとに造形される屋外空間。おも土・石・植物・水などの自然材料を用いて作られる。建築に付随、あるいは建築を包含することが一般的である」と定義付けをしています。 この号から、庭園の観賞や作庭に関係のあることなどをまとめて、しばらくの間連載しようと考えています。今後とも≪月刊 京都史跡散策会≫をよろしくお願いします。 |
【日本庭園の歴史略記】 |
≪上古時代≫ =石・水・樹木への自然信仰の表現= |
古代の人々は自然とともに生活を営んでいました。どこでも広がる海、美しい山の姿、猛々しい岩に憧憬と畏怖の念を抱き、ときに神として祀り崇拝しました。 巨岩を神の依代(よりしろ)とした磐座(いわくら)・磐境(いわさか)・海と見立てた池に海神を祀る島を築いた神池(かみいけ)・神島(しんとう)を信仰の対象として、自然の巨岩または古木に敬虔(けいけん)の念をもって対し、礼拝することからはじまり、その一帯を整備し、荘厳したのが発展しました。これらは純粋な庭園といえませんが、後世庭園の築造につながる日本庭園の源流と観ることができます。 |
≪飛鳥・奈良時代≫ =庭園文化と神仙思想の渡来= |
仏教伝来とともに庭園文化も移入され、庭園づくりが始められました。推古天皇20年(612)に百済国から漂流してきた路子工(みちこのたくみ)(芝耆麻呂(しきまろ))が、その特技を認められて、皇居の南庭に須弥山(しゅみせん)の形を構え、「呉(くれ)橋(はし)」という中国風の木橋を架けています。このように、池に橋を架けたり、また仏教世界の中心にそびえる須弥山を象徴する石などがその池に配されました。同時に上古以来の神池・神島にも橋が架けられるなどして、次第に庭園的要素が固まってきました。大陸から庭園文化がもたらされた時、最初は四角い池泉が造られました。 同34年(626)5月に蘇我馬子が死亡しますが、『日本書紀』に馬子が住んでいた飛鳥川傍の邸宅に池があり、そこに小島があったので、時の人々は「島の大臣(おとど)」と呼んでいたと記しています。 |
≪平安時代≫ =寝殿造りの館と浄土式庭園の流行= |
延暦13年(794)、平安遷都ともに、庭園文化は急激に発展します。三方を囲む優美な稜線の山、ほどよく起伏に富んだ地形、大小の清流など、さまざまな自然条件に恵まれた京都は、まさに風光明媚の地でありました。くわえて沼や湿地、湧水が多く、また豊富な庭石に恵まれました。このような作庭にとって絶好の条件が整った土地柄は、池、流れ、護岸などをつくる技術を発達させました。 |
平安中期ごろの寝殿造りの発達は、貴族たちの洗練された美意識を生み、紫式部の『源氏物語』にみられるような爛熟した貴族文化が発展しました。 寝殿前には白砂が敷かれ、儀式や行事が行なわれる広場(斎庭(ゆにわ))があり、さらにその南に凹字形の広大な池がつくられ、貴族たちは龍頭(りゅうず)鷁首(げきしゅ)の舟を浮かべて舟遊し、詩歌管弦の宴を催しました。また、水源よりうねうねと曲がる流れは曲水の場となりました。 洛中には、このような寝殿造りの池泉庭がいたるところにつくられますが、今日に伝わるものはほとんどないので、往時の日記や絵巻物などでうかがい知ることができます。 平安時代後期になると、末法思想の影響で、極楽浄土の世界を描いた曼荼羅の構図を庭に取り入れた浄土式庭園が発達しました。この様式は寝殿造りの庭園に浄土の世界を現出するような形で発展しています。京都府加茂町の浄瑠璃寺、宇治市の平等院や岩手県平泉の毛越寺(もうつうじ)などの庭がその好例であります。 また、この時期に橘俊綱(としつな)によって、日本最古の造園書『作庭記(さくていき)』が著されました。この書は平安期の作庭技術の集大成であると同時に、後世の造園文化の起点というべきものであります。 |
≪鎌倉・南北朝時代≫ =書院造りと座視観賞式庭園の流行= |
源頼朝が鎌倉に幕府を開き、政権は貴族から武士に移りましたが、文化の主導権は依然として京の貴族にありました。それゆえ初期の庭園は浄土式を踏襲したものでありました。武士の進出とともに興隆した禅宗寺院にしても、庭園は浄土式でありました。 しかし、この時代で特記しなくてはならないのが、夢窓疎石(むそうそせき)(国師)の出現であります。疎石は、中世最高の禅僧として知られていますが、庭園史上にも特別な輝きを放っています。 |
後世に多大な影響を与えた名園、京都洛西の西芳寺や天竜寺をはじめ、岐阜県多治見市の永保寺、鎌倉市の瑞泉寺、山梨県塩山市の恵林寺などがあげられます。これらの庭園はすべて景勝地に造られており、疎石の卓抜した自然観や美意識がうかがわれます。 疎石ゆかりの庭は禅の思想とも深く関わりのあった残山剰水いう技法によってつくられています。この技法は自然の景のなかの一部、小さな眺めをいくつも組み合わせ、全体としてまとまりある構図に表現する技法で、室町時代の枯山水など縮景法につながっていきます。 |
≪室町時代≫ =禅宗の隆盛と枯山水庭園の発展= |
西芳寺庭園は、二つの庭園に大きな影響を与えています。足利3代将軍義満の鹿苑寺(金閣寺)と8代将軍義政の慈照寺(銀閣寺)の二つの名園は、ともに中島を配した池を中心とした浄土式のデザインをみせています。 平安から鎌倉時代を通じて培われた美の伝統を受け継ぎつつ、新しい禅宗風の造形感覚を加味したものであります。 この時代、造園史上の一大転機が訪れました。水を用いず山水の景を表現する技法の出現であります。これは今日、一般に枯山水と呼ばれ、京都の竜安寺、大仙院の2庭はあまりにも有名であります。それまで池、滝、流れなど庭に水は無くてはならないものであります。しかし、枯山水は水に代えて砂を用いています。広さもごく小規模のものとなりました。これまでの庭園の概念とまったく違うものであります。 禅宗の隆盛により、幽玄な抽象芸術、陰の余情を汲む傾向が好まれました。禅の世界のフィルターを通してみた自然観を石や砂でごく限られた空間に象徴化したものが枯山水で、いうなれば座して見る立体的な山水画ということになります。 応仁の乱後の社会混乱と経済疲弊、また水利の限界により大規模な池泉庭の築造が困難であったことも枯山水の流行の大きな要因であります。 |
≪桃山時代≫ =対照的な二つの意匠= |
中国から移入された神仙蓬莱(しんせんほうらい)思想と日本古来の常世(とこよ)思想が結びつき、不老長生を祈念する鶴亀蓬莱は、古くから日本庭園の主題とされてきました。このころから、その鶴亀蓬莱を表現する石組みが、書院造りの庭園に盛んにつくられるようになります。 蓬莱島は東方海上に浮かぶ険しい孤島、めったに人を近付けたりしない島で、その前人未到の蓬莱島に石橋を架けたのがこの時代に現われました。この石橋に象徴される桃山期の庭は、支配者の権力に彩られた様相を呈しています。 京都の二条城二の丸、西本願寺対面所前の庭園などが、その代表としてあげられます。大振りの石をふんだんに使い、植物も棕櫚(しゅろ)や蘇鉄(そてつ)など異国情緒を感じさせるものが好まれ、派手な庭園意匠がかたちづくられました。 一方、千利休によって侘び茶が大成され、市中の山居(さんきょ)、草庵茶室へ至る幽玄な道すがらの庭、すなわち露地(茶庭)の様式が完成します。禅の影響を受け、求道精神をも重んじる茶の湯の庭には、渡りの用として、歩みを和らげる飛石が打たれ、心身を清める蹲踞(つくばい)が置かれ、さらに石燈籠が据えられます。全体として侘び、寂びを基調とした深山幽谷の景が表現されました。飛石、蹲踞、燈籠…。今日、一般化された和風庭園のイメージは、この露地に始まります。 |
≪江戸時代≫ =離宮と大名庭園の造営= |
江戸時代には、これまで築かれた庭園様式にさまざまなバリエーションを付加して全国に多くの庭園がつくられました。京都の桂離宮や修学院離宮などの離宮庭園は、まさにこれまでの集大成であります。 諸国の大名たちは、今日、大名庭園と呼ばれる大池泉庭園を競って築造しました。舟遊式であると同時に回遊式であり、曲水や大きな流れがあり、橋殿、東屋や茶亭などの建物も付加しています。 大名庭園はありとあらゆる様式、手法が壮大なスケールで展開される総合庭園でありました。金沢の兼六園、東京の小石川後楽園、六義園、岡山の後楽園、高松の栗林公園などが大名庭園の代表的なものであります。 江戸の中後期になると、『築山庭造伝』(前・後編)などの作庭マニュアルが出版されるほど、庭造りが一般的なものとなり、各地の寺院はもちろん、庶民の住まいにも庭が造られるようになりました。全国的に専門の庭師も数多く輩出しました。 |
≪明治・大正・昭和時代≫ =近代庭園の誕生= |
この時代は、政治,文化ともに廃頽の時代でありました。治世の力も極度に弱った江戸幕府の時代は終わり、若い下級の青年武士の集団によるクーデターが明治維新という名において成功し、新政府が樹立されました。政治面においても経済面においても、きわめて弱い国力であった日本は、鎖国から急に目覚めた有様で、欧米の文明を鵜呑みにする以外になかったと思われます。 維新の動乱期が過ぎ、新政府内の軋轢(あつれき)もおさまって、ようやく国力も安定しはじめた頃の明治28年(1895)、平安遷都1100年を記念する平安神宮の造営が行われ、南禅寺付近には琵琶湖よりの疎水工事の完成で、政府顕官や富豪たちの別荘が造成されはじめました。東山の山麓に明治の元勲の一人山県有朋が無隣庵を造営したのがはじめでありました。疎水の開通により、その余水を自由に使用することが可能であったことによって、東山の翠巒(すいらん)を借景とした別荘庭園の造園が競って造られました。 そして、これらの別荘庭園は、新興の民間経済人の好む自由主義的好尚の時代風潮を反映して、かつての象徴的な庭園とは対照的に、きわめて写実的な自然縮景的な風景庭園を主とするものであります。そして、その風景庭園も、江戸中期頃から流行した大名庭園の様式を踏襲した、池泉回遊式庭園の情緒を受け継ぐものであります。 代表格の無隣庵庭園は、山県有朋の指図によって作庭工事に従事した植木職小川治兵衛(植治)は、この庭の形式を、それから後の彼の作庭した庭園形式に大いに利用され、そしてこの形式が「植治式」と称されて大流行しました。 彼の作庭は、市田邸庭園、清風荘、平安神宮神苑、野村別邸庭園などがあります。 |
《月刊京都史跡散策会》【日本庭園の歴史と作品】《パートT》 完 |
編集:山口須美男 メールはこちらから。
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