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●第38号メニュー(2009/2/15発行)
【神・神社とその祭神】《そのXVIII》 住吉大社
〔禊祓(みそぎはら)いと三神の誕生〕 〔神功皇后鎮座の由来〕 〔筒之男神の由来〕
〔住吉神は和歌の神〕 〔住吉大社本宮の建築〕

【住吉大社】
 
 古くは墨江三前(すみのえのみまえ)大神・墨江大神・住吉神ともいわれ、延喜の制では名神大社に列する近畿地方屈指の古社であります。祭神は表筒男(うわつつお)命・中筒男(なかつつお)命・底筒男(そこつつお)命の3神であります。
神功皇后(じんぐうこうごう)の摂政11年(211)に朝鮮半島の百済国が、高句麗と新羅に攻められて、わが国に救援を求めてきた時に、ツツノヲ神が、皇后の軍勢を守って、新羅征討の折に海上守護をした神で、皇后が凱旋の後、神託によって和魂(にぎみたま)を摂津国武庫郡莵原(現神戸市東灘区)の海浜に祀ったのが始まりです。
 仁徳天皇(313〜399)の時に現在地に移転しました。雄略天皇(456〜479)の時、息長帯姫(おきながたらしひめ)命(神功皇后)を配祀して、第一殿より第四殿にそれぞれ4神を祀り、以来住吉大神として崇敬を集め、とくに朝廷の殊遇をうけ、天武天皇以来しばしば行幸啓がありました。
 また、この住吉の地は、白砂青松の風光明媚な地で、「住吉の松」はそのまま歌枕となり、文人墨客の来遊がおおく、いつの間にか和歌の神として歌人の尊崇を集めるようになりました。
(左)反り橋(太鼓橋) (右)住吉造の本殿
 
 かつては神社から海が見えていました。『万葉集』に「墨江」「清江」とも書かれた住吉の海は、現在では7キロも西に遠ざかってしまいました。太鼓橋のすぐ近くまで清らかな波が打ち寄せていたと伝えられています。江戸時代の享和2年(1802)夏、宝井馬琴が住吉詣で訪れ『羇旅漫録』に「はるか住吉の浜より見れば、武庫山右に遠く聳え、淡路島むかふにかすみ、一の谷などはるかに見ゆ。岸の姫松は数百本千とせの緑をあらはし、四社の御神上久(かみさび)て尊く、社前のそり橋、角柱の石の鳥居、同石の舞台、誕生石、その外摂社を巡拝す」と記していて、今は失われた風景が彷彿と甦ってきます。
 
〔禊祓(みそぎはら)いと三神の誕生〕
 
 黄泉国(よみのくに)から無事に生還した伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、「私はなんとも言い難い穢らわしい国に行ってしまった。先ずはどこか水辺に行って身を清めなければならない」と言って、筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)(空想上の地)にある川に行きました。
 川辺に着いた伊邪那岐命は手にした杖や、身に着けていた装身具、さらには衣服を次々と傍らに投げ捨て、裸になって水に入る準備をしました。このとき投げ捨てた衣服や装身具から次々と神が生まれました。杖から生まれた船戸神(ふなどのかみ)や褌から生まれた道俣神(ちまたのかみ)など合わせて12柱の神が生まれました。
 そして、準備を整えた伊邪那岐命は、川辺に立って見渡し「上流は流れが速い。下流は流れがおそい」と言い、川
の中流から水中に入りました。身の穢(けが)れを、洗い清めはじめたときに、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神という2柱の神が生まれました。
 これらの2神は黄泉国で触れた穢れから生じた悪しき神でありました。そこで、伊邪那岐命はその「禍」、すなわち黄泉国で遭遇したさまざまな厄を祓おうとしました。そのとき、神直毘神(かむなおびのかみ)、大直毘神、伊豆能売(いずのめ)という3柱の神が生まれました。この3柱の神は災い(穢れ)を、それを被(こうむ)る前の状態に改め直してくれる神であります。
 3柱の神によって穢れを祓った伊邪那岐命は思いきって川の底に潜って身を清めました。そのとき、川の底で底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)が生まれ、続いて底筒之男命(そこつつのおみこと)が生まれました。次に水中の中ほどで身を清めたときに、中津綿津身神、続いて中筒之男命が、さらに水面で身を清めると表(うわ)津綿津身神と表筒之男命か相次いで生まれました。
 これら6柱の神はみな海を守護する神で、綿津見の3柱の神は安曇連(あづみのむらじ)(福岡県の志賀島を本拠とした海人系の豪族)の祖先であります。筒之男命の3柱の神は墨江(大阪住吉区の住吉神社)の3神であります。
 水面に出た伊邪那岐命は顔を拭います。そて、左の目を洗ったときに生まれたのが天照大御神であります。次に右の目を洗うと、月読(つくよみ)命が、最後に鼻を洗ったときには素戔鳴(すさのお)命が生まれました。この3柱の神の誕生をいたく喜んだ伊邪那岐命は「私は多くの神を生んだが、最後にかくも貴(とうと)い3柱の子を生んだ」と言い、これらの神を「三貴子(みはしらのうずのみこ)」と呼びました。
(左)住吉大社航空写真(拡大) (右)住吉大社境内図
 
〔神功皇后の鎮座の由来〕
 
 神功皇后は、『古事記』では息長足姫(おきながたらしひめ)命の名で呼ばれています。第14代仲哀天皇の后で、八幡神として祀られる第15代応神天皇の母であります。
 夫の仲哀天皇が、九州の熊襲族を討伐しようとしたとき、神功皇后が神懸りして神の託宣を受けました。神は「西方に金銀財宝の豊かな国がある。それを服属させて与えよう」と託宣しました。ところが仲哀天皇が託宣を無視して熊襲討伐を優先したため、神の怒りにふれて急死してしまいます。
 天皇を殯宮(もがりのみや)(殯とは高貴な人が亡くなったときに本葬の前に仮の葬儀すること、またはその場所)に納め、大祓えを行なった後、再び神意を問うと、「天神の意思を伝える住吉の三前大神(住吉3神)である」と名乗りました。
 その神意に従って皇后は、住吉3神の守護を受けて軍船で玄界灘を渡りました。その新羅遠征の折り、神のお告げを求めたところ天照大御神と筒之男3神が皇后の男子出産を予言し、さらに「わが御魂を、船の上に坐せて……」と託宣して加護を約束しています。そして新羅平定の際には、「墨江大神の荒御魂を、国守ります神として祭り鎮めて」と、新羅の守護神として鎮祭されています。
 一方、『日本書紀』では、神功皇后が仲哀天皇に託宣のあった神の名を尋ねたところ、「日向国の橘の小門の水底にあって、水葉のように瑞々しくおいでになる神、名は表筒男・中筒男・底筒男の神である」との答えがあり(仲哀天皇9年3月の条)、そして熊襲国の平定後、皇后が新羅におもむくにあたり、「その和魂(にぎみたま)は天皇の身に随行して寿命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒として戦船を導くであろう」との神の教示があったことが記されています(同年9月の条)。 
 そして凱旋すると、「軍に付き添ってきた表筒男・中筒男・底筒男の3神が皇后に教示して、『我が荒魂は、穴門の山田邑に祀らせよ』と仰せになりました。このとき、穴門直(あなとのあたい)の祖である践立(ほむたち)と津守連(つもりのむらじ)の祖である田裳見宿禰(たもみのすくね)が皇后に、『神が鎮まりたいという地に、必ず定め奉るべし』と進言しました。そこで践立を神の荒魂を祭る神主に任じて、社を穴門の山田邑に建てた」とあります(同年12月の条)。
 また、神功皇后摂政元年2月の条に、「表筒男・中筒男・底筒男3神が教示して、『我が和魂は、大津の渟中倉(ぬなくら)の長峡(ながそ)に鎮まらせること。それによって往来する船を守護しよう』と仰せがありました。そこで神の教えるままに鎮め祀ると、平穏に海を渡ることができるようになった」とあります。3神の荒魂を現在の下関市に、和魂を大阪市に祀ったことが知られます。
 とくに、『釈日本紀』には、「この神(3神)の荒魂は、なお筑紫にあり。ただし和魂だけは墨江にある。……そこで神功皇后は初めて、摂津の墨江(住吉)にお遷しになったものである」と、和魂が筑前から攝津へ遷霊されたと記されています。
 新羅から凱旋の帰途、3神に船路を守ってもらった神功皇后が皇后摂政の11年、辛卯(かのとう)の歳に住吉大神を鎮座し、やがて皇后も「われは大神と共に相住まむ」としてこの地に宮殿を定めました。
 こうして住吉の神は、大和王権の軍事・外交にかかわる航海守護の神として篤く信仰されるようになり、遣唐使を送る折には丁重に奉祀されました。
(左) 住吉潮干狩 (右)四天王寺・住吉大社図(住吉大社部分)拡大
 
〔筒之男神の由来〕
 
 住吉大社の祭神の由来については、社伝を始めとし江戸時代から今日まで実に多様な解釈がなされています。「筒男」を海路の主宰神とする説、津をつかさどる津之男神とする説、船霊(ふなだま)ゆかり説、そして星の神とする説などがありますが、いずれの説も根底には、古代人の海や星にたいする畏怖と信仰がともに明瞭であります。
 3神に共通する「筒」は、夕星(ゆうづつ)の「ツツ」ではないか考えられています。夕星は宵の明星、金星のことであります。最も高く上がった夕星を「表筒男」、中空にかかる夕星を「中筒男」、水平線に近い夕星を「底筒男」と名付けたと思われます。
 「筒之男」はもともと航海安全のための守護神であり、現在の灯台と同じような役目を果たす神々であり、そしてそれが具象化したのが方向を教える星であます。三ツ星が直立して海から現れる姿は、筒男3神がつぎつぎに海から生まれ出たとする神話を容易に連想させるものであります。
 また、東西に直列する他に類例のない本殿の配列のしかたも、三ツ星の「直立」を暗示させるものがあります。
 
〔住吉神は和歌の神〕
 
 住吉を和歌の神として信仰することは平安時代からみられています。これは「住吉大社神代記」に住吉神が現れて軽皇子(かるのみこ)に歌で答えたことや、『伊勢物語』に「現形(げきよう)し給(たま)いて」天皇に和歌を返したとあるように、住吉神がしばしば姿を現して和歌で託宣を垂れたところから生まれたと考えられています。
 平安時代に住吉神への崇敬はますます高まり、昌泰元年(898)には宇多上皇が行幸して和歌を詠じ、永承3年(1048)には藤原頼通が高野詣の途中に参詣するなど、住吉社は参詣と遊興をかねた貴人たちで賑わいました。
 白砂青松の住吉の地は神聖で風光明媚な名所として和歌によまれる歌枕となり、住吉神を慰めるために社頭で歌会や住吉歌合が行なわれ、藤原俊成や藤原定家は参籠して和歌の上達を願っています。
住吉物語絵巻 部分
 
 歌枕・住吉は『住吉物語』や『伊勢物語』などの物語にも描かれ、老松・鳥居・浜辺の風景に集約されて工芸品の意匠にも多く取り入れられるようになりました。
 『万葉集』に「住吉(すみのえ)の現人神(あらひとがみ)、船の舳(へ)に、うしはき給ひ」(巻六・1020)と歌われているよう
に、住吉神は人の姿で現れ、霊験を示す神とされました。「船の舳」は、船首に住吉を祀って航海の安全を祈ったものと思われます。また、現実に姿を現す住吉神は翁の姿で表され、謡曲「高砂」に謡われるような寿福慶賀の象徴にもなりました。
 また、住吉神は翁や童子の姿で現れています。そのような絵も見ることができます。江戸時代から婚礼など祝儀の場で歌われている「高砂(たかさご)」は、住吉信仰が広く庶民にまで普及していたことを示すものであります。
 住吉神は近世には俳諧・連歌・狂歌など広く庶民文芸の神としても信仰を集めるようになります。文人墨客の参詣も多く、井原西鶴は貞享元年(1684)6月5日、一日で二万三千五百句を独吟するという大矢数(おおやかず)俳諧を行い、松尾芭蕉は元禄7年(1694)9月13日、宝の市神事の日に来て「升買(こう)て分別かはる月見かな」の句を詠んでいます。
 
〔住吉大社本宮の建築〕
 
 住吉大社の社殿配置は独自の特色を示しています。直線状に並ぶ第三、第二、第一本宮には筒之男3神が、第三本宮横の第四本宮には神功皇后かまつられ、いずれも西向きに建てられています。神社本殿は通常、南向きか東向きで、西向きは類例がありません。
 現在、参道の入り口にある高灯籠の前は埋め立てられていますが、かつてはすぐ近くまで海が迫り、西方の朝鮮半島、そして大陸への門戸でありました。住吉津に開かれた高台に西向きに鎮座するのは、このような理由によるとも考えられます。
 国宝に指定されている本殿4棟はいずれも「住吉造」と呼ばれる形式で建てられています。「住吉造」は、その名の示すとおり本殿にその由来を持ち、古代の神社建築の形を比較的良く伝える数少ない形式のひとつであります。
 外観は切妻造妻入の簡素な構成で、直線的な桧皮葺の屋根と軸部を丹塗り、壁を胡粉塗りの白とする鮮やかな彩色が施されています。そして屋根には直線的な千木(ちぎ)と四角い断面をもつ堅魚木(かつおぎ)が乗っています。
 千木と堅魚木は、神社建築を寺院などの建築と区別する象徴的な存在ですが、もとは構造材でありましたが、現在は千木・堅魚木ともに象徴性を示す装飾の要素となっています。ともに直線的な構成であり、屋根やその他の部位の直線性と相まって意匠上の効果を高めています。
(左) 住吉大社第二本宮 (右)住吉大社本殿平面図
 
 第一本殿から第三本殿までの千木は、上端を垂直に切った外削(そとそぎ)、第4本殿だけが水平に切った内削(うちそぎ)であります。祭神が男神か女神かによる区別という説もありますが、これは後の陰陽思想などの影響によるものです。
 柱はもとは地面に直接穴を掘って固定した掘立(ほったて)柱であったものが、礎石の上に建つように変わりまた。神社建築の発生は仏教建築の導入後、寺院建築に対抗し、意図的に日本古来の意匠的特色で計画されと考えられます。
 住吉大社本殿の外観意匠のうち、彩色と礎石の採用以外の要素は比較的日本古来の造形要素に近いものです。内部は彩色がなく、中ほどの柱を境に板壁で仕切り、手前を外陣、奥を神を祀る内陣とし、床は下陣より一段高くしてあります。このような平面の構成は天皇即位の際に建てられる大嘗宮(だいじょうきゅう)正殿と共通し、神社本殿の祖型の一つと考えられています。
 住吉大社では近世に至るまで、不定期化しながらも造替が行われてきました。現本殿は、宝暦7年度(1757)造替のものが享和2年(1802)に焼失した後、文化7年(1810)の建立であります。造営年代が下るにもかかわらず、本建築はよく古式を伝えており、国宝に指定されているのもそのためであります。

【神・神社とその祭神】《そのXVIII》 住吉大社 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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