号数索引 創刊号 第2号 第3号 第4号 第5号 第6号
  第7号 第8号 第9号 第10号 第11号 第12号
平成19年 第13号 第14号 第15号 第16号 第17号 第18号
  第19号 第20号 第21号 第22号 第23号 第24号
平成20年 第25号 第26号 第27号 第28号 第29号 第30号
  第31号 第32号

第33号

第34号 第35号 第36号
平成21年 第37号 第38号 第39号 第40号 第41号 第42号
  第43号 第44号 第45号 第46号 第47号 第48号
平成22年 第49号 第50号 第51号 第52号 第53号 第54号
  第55号 第56号 第57号 第58号 第59号 第60号
平成23年 第61号          
             
平成24年 第62号 第63号 第64号 第65号    

●第2号メニュー(2006/2/19発行)
江戸時代の大仏復興と公慶上人(後編)
五劫思惟阿弥陀如来坐像について

≪承前≫
大佛は修理開眼を終えましたが、大佛殿再建はそう簡単にはいきません。ここに隆光大僧正(1649〜1724)と公慶上人との出会いが必要となってきました。隆光は大和の国の人で、唐招提寺の朝意にしたがって、真言宗の豊山派について勉学を積みました。そして南都や高野山に学んで顕密2教をきわめ、貞享3年(1686)徳川綱吉の命によって筑波山知足院の院主となっています。また、江戸の神田橋付近に寺を構え、のちに護持院と称しました。
隆光僧正は一小僧の公慶が、大佛殿再建というだいそれた計画に心血を注いでいるのにいたく感激し、それにはまず徳川幕府を動かさなければならないと考えました。
元禄6年(1693)大佛の修復も完成に近づいた頃、隆光は将軍綱吉に公慶上人を会わす計画を立てました。
「天下泰平を祈り、仏法の隆盛と、貴賎の施主二世安楽を祈り、さらに仰ぎ願わくば信心堅固、まさに大佛造立の勝縁に結ばれんことを」と公慶上人は勧進の趣旨を説き、江戸市中に唱えて勧進をはじめました。そして江戸の高野山大徳院に大佛勧進所を開いて、本格的に幕閣などに働きかけ、仲介者としての隆光大僧正が大和国の出身であることに公慶上人は無限の期待をいだきました。
ことに徳川5代将軍綱吉は生類憐れみの令≠だした熱心な仏教徒であり、隆光僧正の自坊である知足院をたびたび訪れています。それを知った公慶上人は、その機会こそ将軍へ大佛殿再建の真意を語る時と考えました。元禄6年(1698)2月9日、そのために公慶上人は隆光僧正の指示により知足院を訪れました。
ときに将軍綱吉は、阿部豊後守正武、柳沢出羽守保明、秋元但馬守高知とともに知足院の護摩堂に入り、護摩がすんで、僧正の書院にて休んでいました。そして、隆光僧正により公慶上人が紹介されました。そこで上人は自分の大佛殿再建の主旨を熱心に述べましたが、綱吉はその努力を労うだけでした。
ついで公慶上人は、同年2月29日、将軍の生母の「三の丸さま」桂昌院との対面が実現しました。『大佛縁起』や俊乗房重源上人の鎌倉時代再建の故事などを物語りました。このとき、桂昌院はかなり公慶上人の真意に打たれるものがありました。
8月15日、上人はふたたび隆光僧正により将軍綱吉と会うことが出来ました。そのときは綱吉の演能があり、演目は『安宅』でありました。この安宅には、弁慶の勧進帳を詠むくだりがあります。公慶上人は必死でこの能を見つめました。そのときに流した上人の涙を綱吉は見逃がさず、そして公慶の純粋な心に打たれました。綱吉の安宅の演能に泣いた公慶上人に綱吉が理由を問いただすと、これに応えた上人は、「今日拝見した安宅の御能は、狂言とはいいながら、昔、俊乗房重源、南都大佛殿建立のため、諸国を勧進せらるることは、定めて莫大の苦労なるべく、今我にくらべて、其の労煩い心魂に徹しければ、落涙止みがたく、涕泣仕ると申し上げたてまつる」と答えています。将軍綱吉はこのとき本当の上人の心を知ることになりました。また、隆光僧正の手引きによるこの公慶上人との結縁を心から喜びました。全くこのとき大佛殿再建は約束されたものでありました。公慶上人は先に寺社奉行を通じて、幕府から10万両の勧進許可をもらったことを喜ぶと同時に、こんどは大佛開眼に行なった努力と方法を、大佛殿再建にあてはめました。
将軍に対しては、寺社奉行―老中―側用人というラインで勧進助成を推進し、その側面より護持院隆光により後押しをしてもらいますが、隆光に会った上人は、隆光より「将軍を動かすことも大切であるが、将軍の生母の桂昌院を動かすことがより大切である」との助言があったので、公慶上人は桂昌院に接近することを積極的にはかりました。桂昌院は、はじめ光子と称し京都清水坂の八百屋仁右衛門の次女に生まれ、美貌の持ち主で有名でした。彼女は、はじめ父の亡くなったのち、母にしたがって二条家の家臣本庄宗利の養女となっていましたが、寛永年間に鷹司信房の娘が家光に嫁したときに、この人に仕えて江戸へ下がって、春日局に見出されて家光の側室となって、男子徳末を出産しました。そして徳末が館林15万石に封ぜられると同時に、その生母として彼の養育にあたっていました。

 ↑桂昌院像 善峯寺蔵

 ↑隆光上人像 護国寺蔵

 ↑徳川5代将軍綱吉像(犬公方)
 ↑ 側用人 柳沢吉保像
家光の死後、この徳末が5代将軍綱吉となります。将軍の母「阿玉の方」は桂昌院と称して尼となり、三の丸さまとして勢力を拡大していきました。
また桂昌院が佛に祈って綱吉を産んだいきさつから、非常に佛教に対する信仰が深く、その厚い信仰の中に学問好きな綱吉を引き入れていきました。
また桂昌院の弟の本庄因幡守宗資は、姉の桂昌院が綱吉を産んで三の丸にいたために破格の昇進を得て、元禄元年(1688)には、下野足利郡で1万石、さらに常陸国笠間城で4万石と、桂昌院の縁者として異常な出世をとげます。
この宗資も、信仰への心が厚かったため、公慶上人は隆光僧正を通じてこの一族にも働きかけをしました。そしてまず『大佛殿再建勧進帳』を示し、大佛殿再建の意図は、天下の安全と、徳川家の武運長久、庶民の安楽のご祈祷を行なうためのものであると、説いて再建への援助を乞いました。
元禄8年(1695)10月8日。公慶上人は俊乗房重源上人が携えて勧進された宝珠杓を持って、知足院隆光僧正と快意僧正とともに、本庄因幡守宗資などの協力を得て、はじめて桂昌院と面接しました。桂昌院は公慶上人が俊乗上人のあとをしたって東大寺大佛殿の再建を発願して、勧進に努力している姿を見て大変感激して、まずこのときは黄金(金子)500両の寄進をしました。この桂昌院の寄進は以後もつづき、公慶上人が江戸へ入るたびに桂昌院をたずね、そのたびごとに喜捨にあずかっています。
また翌年3月15日にも、桂昌院が護持院隆光僧正と増上寺へ参詣されるときは、公慶上人は唐招提寺の英範などとともに参列し、その折に大佛殿再建勧進の進捗・経過を報告しています。
桂昌院が動き出したことは、事実上、幕府が動き出したことでありました。将軍綱吉から白銀1000枚(1万両)の寄進を受けて、いよいよ大佛殿の大工事にとりかかります。まず、用材の購入や、工事への準備にとりかかりました。この準備が行なわれていた元禄15年(1702)3月16日、桂昌院は朝廷より従一位に叙位があり、この機会に上洛して春日大社や東大寺の大佛へ訪れる計画を持っていましたが、その計画は実現せず、一族の本庄安芸守をもって代参させ、大佛殿の工事の進捗ぶりを見聞させることにしました。4月22日安芸守は大佛殿に代参して、大佛殿がなかば出来かけているのを喜んで一泊して江戸に戻り、桂昌院に報告しています。
元禄17年(1704)1月10日に、江戸に入った公慶上人は、大佛殿大虹梁の図面を桂昌院にみせて、その喜捨を賜わるなど桂昌院の協力はただならぬものがありました。大佛殿の大虹梁も到着し、上棟式も終った宝永2年(1705)6月22日に桂昌院は薨じました。
翌元禄10年には奈良奉行より春日芳山の松材の寄進がありました。公慶上人は大佛殿の大柱にする用材については非常な苦心を払い、その用材を得るために遠く日向国佐土原・肥前国伊佐早(諫早)・長崎までも足を運びました。しかし公慶上人一人の勧進ではどうにもならないものでありました。
そこへ江戸より飛脚が長崎にいる公慶上人のところにやってきて、本庄因幡守宗資より、公慶上人のかねてからの要望を入れて、柳沢出羽守保明の協力のもとに諸大名に対して尊卑を問わず人別奉加を決定した旨申し渡されました。
そうして奉加帳の筆始めに寺社奉行本多紀伊守、戸田能登守が署名して、諸大名に回すことになりました。上人はこの喜びを胸に秘めて、ふたたび豊前国臼杵で勧進活動をつづけました。
元禄9年(1696)4月10日、幕府は奈良奉行に内田伝左衛門守政と妻木彦右衛門頼方の二人を任じて、大佛殿の大工事にそなえました。
妻木彦右衛門頼方(のち頼保とあらためる)が着任すると同時に、大佛殿用材の材木引きが始まりました。4月6日に、木津より東大寺大佛殿普請場までの材木の運送に対する車力の入札があって、京都の井筒屋忠兵衛が落札しました。
この妻木氏の着任は、もう一つ柳沢吉保の強い意向がありました。それは公慶上人が天平の昔のように桁行き11間の金堂(大佛殿)をめざしているのを、4間縮小して7間にすることを納得させることでありました。そのかわり、幕府の財政が悪化しても完成まで援助を約束するということを上人に承知さすためでありました。これは上人の初志に反することでありましたが、涙をのんでこれを受け入れました。そして再建工事は始まりました。
奈良奉行妻木彦右衛門頼保着任後、大工事の準備が着々と進められていきました。元禄9年(1696)7月25日大佛殿工事開始、ついで同10年には、妻木の指示により、大佛殿用材300本を芳山より切出し、同4月25日には大佛殿立柱の運びとなりました。
南大門の前で奈良の町の人々により浄瑠璃・小芝居が行なわれ、殿内の敷地では木遣りをとなえる鳶のもの63人、木挽者31人、鍛冶7人、大工125人が、奈良奉行の見守る中で大佛の右に設けられた材木小屋より仕立てられたまず1本が建ちあがりました。公慶上人の喜びはこれに過ぎるものはありません。喜びの獅子舞は柱のまわりをめぐり、人びとの歓声は三笠山にとどろきました。そしてつづいて4月26日より5月9日まで20本が建ちあがりました。予定された柱総数60本のうちの3分のTであります。けれども実際に大佛殿の柱は全部で92本を必要としたために、勧進と用材の調達はさらに強力に進めなければならなくなりました。そこで幕府も、寺社奉行永井紀伊守、勘定奉行萩原近江守、奈良奉行妻木彦右衛門等に協力させて勧進を積極的に行ないました。また幕府の命により諸大名・諸臣の石高100石につき金1分の拠出を命じて積極的に助力することになりました。この拠出金は以後奈良奉行所に集められ、公慶の大佛勧進所へ送金されることになりました。この諸大名の奉加金と、勧進所により集められた庶民層からの寄付金によって大佛殿再建工事は急速にはかどりました。
元禄12年(1699)6月の時点では、用材・鉄輪・釘や鳶・人夫の費用、13万3660枚の瓦代を含めて、銀3974貫631匁と見積もられました。金にして6万6240余両であります。 
大佛殿造営に並行して、念仏堂を修理し、東南院を再建し聖宝僧正の像を安置し、境内に東照宮が建立されました。また寺社奉行・勘定奉行もしばしば奈良に下向して造営の相談に一役買っています。
ことに公慶上人は、俊乗房重源上人の偉業を継がんとして、俊乗堂を建て、俊乗上人像をこの堂に迎えました。また大佛殿再建完成を重源上人に祈るために俊乗房重源上人五百年忌を厳修しました。
元禄14年(1701)桂昌院の名代として本庄安芸守重俊が来寺してよりさらに工事が進みました。瓦の製造の用意もでき、つぎつぎと大佛殿の柱は林立していきました。
元禄16年、いよいよ大佛殿の大屋根にのせる大虹梁が問題になってきました。この年の正月21日、奈良町に住んでいた大工長右衛門と杣工の雑司村の加兵衛ほか2人が、大棟木用材となる木があるといわれている日向国へ出向くことになりました。日向国細島に20日について、35里の山道をのぼって目的地白鳥山に到着しました。
一方、東大寺には3月21日老中稲葉但馬守高富、大目付安藤筑後守重玄、勘定奉行荻原近江守重秀、目付石尾織部らの幕閣の重臣らが寺中検分のためおもむいて、工事の進捗状況を視察しました。また、大佛勧進所や大佛御普請所をめぐって、大棟木の探索と運送や奉加金の引渡しなどについて協議を重ねています。
この年の9月22日に、大佛殿の大虹梁が到着しました。13間物(長さ13間(約24m)、末口3尺5寸、元口4尺)と同じく13間物(長さ13間、末口3尺1寸、元口差渡し4尺2寸)。目方は6千貫余り、代金1本2000両といわれている2本の材木は、薩摩国白鳥山権現社の表参道あったもので、ほかに大松1本を入手しました。
この白鳥神社には、日本武尊をまつっているので公慶上人は全く神のお告げだといって大変喜びました。そして早速人数90人を集めて、9月22日より伐り倒しにかかりました。またもう1本については、少し大きいため杣工100人がかかりました。そして25日に伐り倒し、松の皮をはいで金輪をはめ、運び出しの準備にとりかかりました。
山出しは宝永元年(1704)1月7日より始めることにして、その道程については、島津藩の助援をえて、白鳥山より鹿児島湾に搬出し、千石船に舶載して兵庫港を通って大阪伝法口まで運び、さらに淀川、木津川を遡航して、木津から奈良坂をのぼって大佛殿へ運搬される予定をたてました。実際の日数は、正月7日に山出して、115日を経た5月4日に国分新川にまず到着しました。この間の木曳きの人数は数千人、牛4千頭で、薩摩藩から山奉行有川吉兵衛、平田茂右衛門と、検者鎌田市之助、伊集院茂兵衛らが藩主島津吉貴の命を受けて、協力して新川口へ持ち出すのに成功したのであります。そして瀬戸内海を通って山城国木津まで、8月までかかって海上の大輸送がなされました。しかし木津川は渇水のため、東大寺八幡宮で雨乞いの祈りが捧げられるという一幕もありました。木津より陸上の運送に切り替えることは、いままでの水上に倍して大変なことでありました。
8月19日より毎日2,3千人を繰り出して、奈良坂を越えなければなりません。本多能登守、藤堂大学頭の領分の人びと数千人をもって寄進曳きを行ないました。町方の組が組織され、木遣音頭に導かれ、木曳きにたずさわりました。南都の偉観これにすぐじと、近郷の町々より木曳き見ようと押しかける人が道にあふれ、般若寺越えを2本の棟木が通るごとに「わっ」と大歓声がわきあがりました。
9月5日、大佛殿西廻廊の中ほどに2本の棟木が置かれました。寺中や勧化院へ赤飯が配られ、同心や木曳きの役人など残らず出て、この喜びを分かち合いました。今日の日を待ち焦がれていた公慶上人は、真っ先に大佛に報告をしました。宝永2年(1705)正月には新造屋を修理し、3月13日と18日に加工した2本の大虹梁を大佛殿大屋根にあげて、閏4月10日に上棟式が行われました。この時公慶上人は58歳でありました。上人はここで大佛殿の造営も十中の八,九が出来あがったので幕府にお礼を申し述べるために、江戸入りを計画し、その途中で伊勢に参宮して重源上人の先例にならい成就祈願をおこない、6月14日に江戸に到着しました。公慶上人は日頃の過労もたたって、宝永2年6月27日に痢病をわずらい、遂に大佛殿の落慶を見ずに7月12日、58歳の生涯を閉じました。
幕府は特例をもって、東大寺からの申請にもとづいて、7月20日に江戸を出て10日間で東大寺に送り届けられ、8月11日に塔頭の五劫院に葬られました。
公慶上人は大佛殿再建に尽くすこと実に22年、その半生をこの大偉業に捧げましたが、ついに完成を見ずに入寂しました。
上人の没後は門弟の公盛・公俊・庸訓・公祥など歴代の勧進上人の4人によってうけつがれ、没後4年の宝永6年3月21日より4月8日まで、大佛殿の盛大な落慶供養が行なわれました。
初日には勅使万里小路尚房を迎え、寺務安井門跡道恕大僧正が導師となって大佛殿、東大寺一山の僧侶が出仕して、故公慶上人にかわって勧進上人公盛が参列し、梵唄、散華大行道、伶人引列、梵音、錫杖、奏楽があって、導師による華厳経講讃の法会が行なわれ、つづいて雅楽5曲が演ぜられて、その盛大さは鎌倉の盛儀に劣らぬものでありました。
また22日以後は諸山諸寺の法会が続けられました。この1ヶ月間の盛儀に参列した僧侶は1万人、一般は15万余人をこえ、南大門の付近には、浄瑠璃・独楽回し・人形からくりなどの見世物小屋などがでて大変な賑わいでありました。
享保元年(1716)には中門、さらにその後には、廻廊や樂門、大佛の両脇侍の巨像も造立されました。
 

(註) 教育社歴史新書<日本史>6平岡定海著【東大寺】と奈良国立博物館の公開講座で17年12月17日の「江戸時代の東大寺」 森本 公誠(東大寺別当)と18年1月7日の「公慶上人の生涯」 西山 厚(奈良国立博物館資料室長)などの書籍や講演内容を参考としました。




(註)創刊号の【江戸時代の大仏復興と公慶上人】(前編)の5頁目には……、
貞享2年(1685)、まず大佛修理の手始めに大佛胎内の材木の修理にとりかかりました。そして新しく勧進の事務所として龍松院を勧進所にあて、その促進化をはかりました。
まず五刧思惟の阿弥陀仏を龍松院内に移して未来永劫に至るまでも、自分は勧進して大佛および大佛殿を再建してやまないことを、五刧思惟の阿弥陀仏前に誓い「天下泰平を祈るためには、大佛殿の成就をおいて外にはない」との公慶上人の堅い意志は、俊乗房重源上人の遺志をつぎ、その決意をあらためて強調しました。
公慶上人がこの大仏殿再建の誓いをした五刧思惟の阿弥陀仏について少し説明します。
この阿弥陀像は長大な螺髪によって頭部が覆われているところに特徴があります。着衣の袈裟は通肩にまとい、結跏して定印するものと、同じく結跏して合掌するものとの二種があります。定印の例は奈良・五劫院にあり、合掌する例は東大寺勧進所にあります。この2体の像は、東大寺の復興に尽力した俊乗房重源上人が宋から請来したものであります。頭部の螺髪が長大になっているのは、五劫という長い間、思惟三昧にふけり、理髪をしなかったためこのような形になり、時間的な経過の久しいことを、視覚的に、誇張的に表現した造形であります。


〔五劫思惟阿弥陀如来坐像について〕  奈良 五劫院
 
阿弥陀如来とは、梵名を無量寿如来と無量光如来に漢訳し、その時間的な永遠性と空間的な無限の広がりをもつ無量の徳を併せ持ったものとして梵名の音写で、アミダと名付けられました。中国で長生と結びついた信仰で広まり、西方浄土に今なお住し、48願の本願をもって永遠の救いをたれるということで、非常に広範囲にわたって盛んな信仰がなされてきました。特に往生願では念仏する者を必ず往生せしめることを約束されています。
 無量寿経によれば、阿弥陀如来は釈迦のあらわれる以前の仏であります。つまり過去佛の内で54番目の如来である世自在王佛の感化教導により、国王(釈迦と同じくインド王族の太子として出生した)の地位をすてて出家して、法蔵比丘と名乗ったと言うことが仏説無量寿経に記されています。
この時に最勝浄土、つまり最も優れた佛の世界を作り上げ、一切の衆生を救おうとする48の大願を立てました。この大願を成就するために永い間独座思惟し、修行を繰り返し、その思惟された時間が五劫だとされています。永い間の修行で頭髪がのびた姿で阿弥陀像が作られています。
五劫というのは、大変長い時間の単位であります。有名な落語に「寿限無」というのがありますが、そのなかに寿限無寿限無五劫のすりきれ≠ニいう言葉が出てきます。
ここに40里4方もある大岩石があって、100年に一度ずつ天人が天下って来て、その石を衣の袖でひと撫でします。いかに柔らかいものでも、ひと撫ですると、僅かでも石の表面が磨耗します。これを何千・何万回くり返すと、ついにはその石が擦り切れて無くなります。その時間を「一劫」といいます。その5倍というからもはや無限・永遠を指すのであります。また、一説には五劫というのは、21億6000万年であるとも言われていますが、いずれにしても気の遠くなるような永い時間であることには変わりはありません。それだけの永い時間を法蔵菩薩は思索修行を続けました。

≪第2号 完≫

編集:山口須美男 メールはこちらから。


≪お知らせ≫
【月刊 京都史跡散策会】は平成18年1月15日に創刊しました。毎月第3日曜日に発行する予定です。京都史跡散策会の資料をベースとして有機的に結んでいきます。
◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/

Google