号数索引 創刊号 第2号 第3号 第4号 第5号 第6号
  第7号 第8号 第9号 第10号 第11号 第12号
平成19年 第13号 第14号 第15号 第16号 第17号 第18号
  第19号 第20号 第21号 第22号 第23号 第24号
平成20年 第25号 第26号 第27号 第28号 第29号 第30号
  第31号 第32号

第33号

第34号 第35号 第36号
平成21年 第37号 第38号 第39号 第40号 第41号 第42号
  第43号 第44号 第45号 第46号 第47号 第48号
平成22年 第49号 第50号 第51号 第52号 第53号 第54号
  第55号 第56号 第57号 第58号 第59号 第60号
平成23年 第61号          
             
平成24年 第62号 第63号 第64号 第65号    

●第40号メニュー(2009/4/19発行)
【神・神社とその祭神】《そのXX》 熊野三山
〔はじめに〕 〔熊野本宮大社〕 〔熊野速玉大社〕
〔熊野那智大社〕 〔三山の主な神事〕

〔はじめに〕
 
 熊野の歴史は、熊野三山にはじまります。それは熊野本宮大社、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社であり、その三山に対する信仰の歴史が大きな要素となっています。
 この三社はもともとは別個のものであったとみられています。地理的に近い位置にあり、修験道の発達や神仏習合の思想などから、相互に関連をもつようになり、平安時代には熊野三山と総称され、三山を巡拝する慣習が生まれました。
 本宮の主神は家津御子(けつみこ)神(本地は阿弥陀如来)、速玉(新宮)は速玉神(本地は薬師如来)、那智は結(むすび)(夫須美)神(本地は観音菩薩)であります。
 熊野は辺境の地でありますが、日本神話とかかわりを持っています。イザナギノミコトと共に日本の国生みをした女神イザナミノミコトは、火の神を産んだとき、火傷をして亡くなり、紀伊国熊野の有馬に葬られました。そして、土地の習俗として、この神の魂を祀るのに、花のある季節には花をもってし、また、鼓と笛と幡で歌舞をすると、『日本書紀』に「一書に曰く」として記載されています。イザナミの葬られたのは花の窟(いわや)だとされ、ここでの神事は古代からの伝統が今に引き継がれています。
(左)熊野本宮大社 扁額 (右)熊野速玉大神坐像(拡大)
 
 神武東征の伝承も『古事記』に記載されています。カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)は、紀の国の海を回航して熊野村に至ったとき、大きな熊が山から出てきて、すぐに去りますが、その毒気にあてられたのか、神武をはじめ一行のものが俄かに気を失いました。そこへ熊野の高倉下(たかくらじ)命が現れて、天つ神から授かった太刀を捧げたので、それによって神武たちは元気をとりもどし、熊野の荒ぶる神々をしずめ、八咫烏(やたがらす)に案内されて大和へ入ったとあります。『日本書紀』には熊野のことは出ていませんが、東征路には似たようなことが記され、「狭野(さの)を越えて熊野神邑(かみむら)に至り、天磐盾(あめのいわたて)に登る」などの記述があり、狭野は佐野、天磐盾は神倉山の巨岩(コトビキ岩)を指しています。
 古来、熊野は奥地を意味する「隈(くま)」であり、神々や死者の霊魂が「隠れ、籠(こ)もる」ところで、「隠国(こもりく)」という神のこもり坐(い)ます聖域でありました。山々には幽谷が刻まれ、樹木が鬱蒼と生い茂る神秘的な熊野は、聖地であり、浄土とみなされていました。
 熊野という地名は、初めからいまのような広い地域を指したのではなく、『古事記』や『日本書紀』に出てくる「熊野村」は、いまの新宮市付近であり、現に熊野地というような地名があることなどからしても、もともとは熊野川の河口付近を熊野と呼んでいたと思われます。熊野は紀伊半島の南部を占める地域であります。熊野川の河口にあたる新宮市付近が中心で、西の田辺市から東の紀伊長島町付近へかけて、直線で約2百キロの海岸線が続きます。しかし、平地はほとんどなく、七里御浜(しちりみはま)を別にすれば、山地が海に迫り、荒々しくぶつかる海水の浸食を受けて、リアス式の複雑な海岸が多くあります。
 突出した高山がなく、折り重なって山々が連続するのは、熊野の特色ある景観であり、熊野三千六百峰と言われる所以であります。陸地は山また山が奥の方に広がり、その山の間を縫って、近畿では最大の熊野川が流れ、また、古座川や日置川、富田川があります。
「花の窟」の網かけ神事
 
 熊野参詣は、田辺から中辺路(なかへち)をへて先ず本宮に詣で、ついで新宮・那智を巡拝し、再び本宮にもどって、もと来た道を引き返すのが正式の参拝でありました。参詣ルートが紀伊路・中辺路に固定され、先達が誘導する道中の作法なども、増誉が指導した白河上皇の参詣の際の方式が以後の規範となったと思われます。

註 摂関期にはじまる熊野参詣が上皇・女院や貴族にひろまるのは、院政期の12世紀でありますが、その最初の画期となったのは、寛治4年(1090)の白河上皇の参詣でありました。この参詣に先達をつとめた園城寺の僧増誉は、その功績により熊野三山の検校職に補任されています。

 以後、中世を通じて、多くの貴賎男女が熊野に参詣し、「蟻の熊野詣」といわれるような現象を呈するのは、熊野の神々が「浄不浄を嫌わず」という態度をとったからであります。
 これは、鎌倉時代に時宗を開いた一遍上人が参詣した際に、熊野権現が発したとされる言葉にもみられます。一遍は熊野に向かう途中の中辺路の山中で一人の僧に出合い、一念の信を起こして南無阿弥陀仏と唱えて、念仏札を受け給えとすすめます。しかし、僧はいまは一念の信が起こらないと断ります。この僧こそ熊野権現の化身であって、一遍が本宮に参詣した時、証誠殿の前に山伏姿で現れました。お前はなぜ念仏を無理強いするのか、一切衆生の往生は阿弥陀仏を信じるところにあり、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌(いと)わずその札を配るべし」と示現したといわれています。この本宮での神託は、阿弥陀如来が一遍の布教の正しさを認証したものとして、その後の時宗に大きな影響力をもたらしました。
(上)熊野本宮大社古絵図 (下) 旧社地 大斎原の森
  
〔熊野本宮大社〕
 
熊野本宮大社は、もともと大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる熊野川とその支流の音無川・岩田川の合流する中州に鎮座していました。明治22年の大水害によって倒壊・流失したため、同24年に約500m北方の現在地に遷座されました。
旧社地大斎原にあった本宮の社殿は、『一遍上人絵伝』やクリーブランド美術館蔵「熊野曼荼羅」の図像から明らかなように、主神の証誠殿(せいしょうでん)(家津御子(けつみこ)神)を第三殿とし、その西に塀をへだてて結(ゆい)神(西御前・第一殿)と速(はや)玉(たま)神(中御前・第二殿)を相殿として祀り、証誠殿の東には若宮(第四殿)、ついで禅師宮・聖宮・児宮・子守宮(第五〜八殿)および一万十万・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛童子(第九〜十二殿)をいずれも相殿として、横一列に祀っていました。正面左から右に、結神・速玉神・証誠殿を三所権現、若宮〜子守宮を五所王子、一万十万〜米持金剛童子を四所宮といい、併せて十二所権現とも称しました。また、左から四殿ずつにわけて、上四社・中四社・下四社と呼ぶこともありました。
 その聖域の中心を占めるのは、「証誠菩薩(しょうじょぼさつ)」となって証誠殿に祀られ、「現当二世」(現世と来世)の安楽を保証する神、家津御子神であります。
 明治24年、現在地に遷座した際、境内地が狭く、また、流失した旧部材の残部が少ないので、移築・再建されたのは上四社のみで、これが現在の社殿となっています。この社殿建築は十九世紀初頭のものを踏襲しているので、重要文化財に指定されています。
 なお、遷座されなかった中四社と下四社は旧社地大斎原の二つの石祠に祀られています。
熊野の主神は、平安時代初期にはもっぱら熊野坐(ます)神と呼ばれ、ついで家津御子(けつみこ)神と称されていました。これは出雲神話を受容することによって生じた呼称であります。出雲国にも熊野大神がいて、櫛御毛野(くしみけぬの)命と呼ばれています。櫛御毛野とは、クシ(美妙)・ミケ(食饌)・ヌ(主)で、美妙なる食饌を司る神を意味しています。家津御子神はこれが転訛したもので、意味は同じであります。したがって、家津御子神と称することによって農業神的性格を強めました。
(左)家津御子大神坐像(拡大) (右)熊野本宮大社 証誠殿(拡大)
 
 熊野本宮大社の神事のうち、著名なものは、湯登(ゆのぼり)神事と八咫烏(やたがらす)神事であります。湯登神事は、例大祭(4月15日)の潔斎の行事で、4月13日に行なわれます。稚児を肩車に乗せて、宮司以下の祭員が白張姿で湯の峯に向かい、湯浴みして斎戒した後、稚児舞楽を奉納して本宮へもどります。正月7日夕刻から行なわれる八咫烏神事は、牛玉宝印を押捺する神事であります。牛玉宝印とは、災厄除けの護符で、家の玄関に貼ったり、田の水口に立てたほか、起請文の料紙として用いられました。熊野三山が発行する牛玉宝印は、最も権威あるものとして全国に普及しました。戦国時代以降、烏と宝珠で「熊野山宝印」(本宮・新宮)と「那智滝宝印」(那智)の文字を表すようになりました。
(左)本宮大社第4殿の脇にある「要石」
(右)大斎原の石祠(拡大)
 
〔熊野速玉大社〕
 
 熊野速玉大社は熊野川の河口近くに鎮座しています。主神の速玉(はやたま)とは、玉のように光る生命力を象徴しています。したがって、速(早)玉神の起源を熊野川と考えることも出来ますが、速玉神の起源は、速玉大社が鎮座する千穂ヶ峯の南端にある神倉山の巨岩ゴトビキ岩に求めることが出来ます。巨岩ゴトビキ岩に対する信仰は古く、岩の周辺から祭祀遺物が出ることから、巨岩信仰が速玉神の起源であると考えられます。
 また、新宮という呼称は旧社地神倉山に対する現在の新社地に由来するとも説かれています。しかしながら、新宮はあくまで本宮に対する呼称と見るべきであります。ちなみに、新宮の所見は、『扶桑略記』永保2年(1082)10月17日の条に、熊野山大衆が新宮・那智の神輿をかついで上洛したという記事があり、――この史料はまた那智の初見でもあります。これ以前はすべて速玉神と呼ばれており、本宮の初見も永保3年だという事実を考慮すれば、新宮は本宮に対する言葉だと考えれます。このことは新宮の社殿構成を検討することによっても明らかであります。『一遍上人絵伝』やクリーブランド美術館蔵「熊野曼荼羅」などによって知られる新宮の社殿構成は、付図「本宮・新宮・那智の社殿構成」のように、本宮の社殿から、相殿であった第一・二殿を切り離し、第二殿と第三殿の間にあった塀を取り去れば、以下の社殿はまつたく同一であります。第一・二殿を切り離し、第二・三殿間の塀をなくしたのは、第二殿の速玉神が新宮の主神であるからであります。すなわち、新宮の社殿は本宮の社殿のコピーといえるほど、本宮の強い影響のもとに構成されています。ただし、新宮の現在の社殿構成はこれとは似ても似つかぬものになっています。明治16年、火災によって社殿のすべてを焼失し、その後長期わたる仮社殿をへて、昭和28年に再建した際、社殿構成を大幅に改変し、第二殿(速玉神)を左端におき、第一・三・四殿を相殿にしましたが、近年、第一殿を左端に再建しています。中世の新宮の社殿が本宮の強い影響下に造営されたといっても、それは十一世紀後半以前の熊野三山の一体化によってもたらされたもので、平安時代中期以前は、速玉神と家津御子神は別の神であったのです。
熊野速玉大社
  
 すなわち、九世紀半ばから、朝廷が諸国の神々に位階を授けることが行なわれ、貞観元年(859)、熊野早玉神と熊野坐神は同時に従五位からいっきょに従二位に昇叙しますが、これは出雲の熊野大神との均衡をはかったものとされています。この時まで、早玉神と熊野坐神の位は同じでありましたが、貞観5年には、早玉神だけが正二位を授けられ、ついで延喜7年(907)、速玉神に従一位、熊野坐神に正二位が授けられました。このように、貞観5年以降、早玉神の方が熊野坐神よりも常に一ランク上の位であって、この関係が同時に正一位となる天慶3年(940)までつづきました。
 ある時期まで、早玉神の方が本宮の熊野坐神よりも位が高かったことは、これらの神はまったく別の神々であったことが理解できます。
 
(左)夫須美神坐像(拡大) (右)付図 三山の社殿構成
 
〔熊野那智大社〕
 
 那智の神は名瀑大滝(一の滝)の信仰に由来します。その起源も悠久の昔にさかのぼります。そもそも当社の創祀は、この那智の滝への信仰が始まりとされています。大滝の拝所にある別宮飛瀧(ひろう)神社は大滝の神を祀ったものであります。また、那智大社境内にある第一殿瀧宮は当社の鎮守社とされ、祭神は大己貴(おおなむち)命(大国主命の別名)で、大滝を神格化したものといわれています。  しかし、那智の名が文献に現れるのは新しく、初見は、熊野山大衆が新宮・那智の神輿をかついで上洛したという、『扶桑略紀』永保二年(1082)十月十七日の記事であります。熊野本宮大社・熊野速玉大社は前述したように、本宮・新宮・那智の三山が一体化する時期に、那智の名が初めて登場したわけです。
 那智の社殿構成は、付図に示した通りで、本宮や新宮の社殿構成とくらべると、一見特異なように見えますが、正面右端にほかの社殿よりやや小ぶりの滝宮をおいたのは那智の特殊性によります。この点を除くと、それほど特異ではなく、新宮の社殿構成の強い影響下に造営されたとみられます。まず、第一殿〜第四殿を独立の社殿とすることは新宮と同じであります。
千穂ヶ峯のゴトビキ岩
 
 第四殿を左端においたのは異例でありますが、新たにおかれた滝宮とのバランスをとるためであります。第五殿〜第十二殿を一括して相殿とし、左隅においたのは境内が狭いための措置であります。このように、三山の社殿構成は本宮を起点とし、若干のヴァリエーションをともないつつ、新宮ついで那智に移入されたことになります。
 現在の那智の社殿は、基本的にはこの中世以来の構成を踏襲していて貴重でありますが、主神である第一殿(結神)がほかの社殿よりも一回り大きくなっています。これは近世になってからの改変と思われています。現在の社殿は幕末の造営で、重要文化財に指定されています。
  那智の主神を結神(牟須美神、夫須美(ふすみ)神)と称します。ただし、奈良時代には、結(牟須美)神は本宮の神でありました。この神名はいつしか忘れられ、本宮の神は、平安時代には熊野坐神あるいは家津御子神と呼ばれるようになりました。
 那智の神を結(牟須美)神と称するのは、忘れられていた神名の復活であります。すなわち、十一世紀後半以降、那智が熊野三山を構成する有力な神として注目されるようになると、結(牟須美)神がその一神格を現すものとして再利用されたことになります。ちなみに、ムスビは産霊の意で、豊かな生殖力を象徴しています。
 那智が長く史料などに現れてないのは新宮(速玉社)の支配下にあったのでありますが、那智には独特の信仰がみられます。その一つは滝に対する信仰で、大滝にいたる参道の両側には、十二世紀中葉〜十六世紀に多くの経塚が造られました。埋経は釈迦の入滅の56億7千万年後に弥勒菩薩が下生し、衆生を救済する時のためのものとされ、大滝には弥勒信仰も存在したとみられます。那智経塚が特異なのは、埋経にとどまらず、多くの仏像・仏具がみられ、なかには飛鳥・奈良時代の仏像や密教の大壇具までも出土しています。
熊野那智大社
 
 また、中世の滝の信仰で見逃せないのは、大滝に千手観音の磨崖仏が彫られていました。ただし、この磨崖仏は治承4年(1180)11月の地震によって崩落したと『山槐記』『百錬抄』に記載されています。大滝の周辺は滝本と呼ばれ、かつは千手堂と飛瀧権現(神社)が並立していましたが、明治の神仏分離によって千手堂は廃され飛瀧神社のみとなりました。
 滝修行の確実な初例は、三善清行の子浄蔵で、延喜15年(915)から滝本に3年間籠居しています。また伝説的なものでは花山法皇の千日行、文覚の荒行などが有名で法皇の籠居跡は大滝の上流100メートル、文覚の滝は下流70メートルのところにあります。
 那智の主神結神の本地仏は千手観音とされ、社殿に付設された如意輪堂(後の青岸渡寺)の本尊は如意輪観音であります。このため那智は観世音菩薩の浄土、すなわち補陀落浄土とされていました。
(左)那智瀧図 国宝 (中)那智の大瀧 
(右)熊野曼荼羅 クリーブランド美蔵(拡大)
 
〔三山の主な神事〕
 
 本宮には、大斎原をめざす神輿渡御神事(4月16日)を中心に、湯登神事と宮渡り(13日)船玉大祭(同14日)から成る「例大祭」があります。最終日の神輿への神霊移しと稚児の八撥(やさばき)神事はもと熊野修験が神の憑依者(ひょういしゃ)「よりまし」を操作した呪術的行為であると思われます。また厄除けの護符牛玉宝印を押捺する正月7日の八咫烏神事があります。重要文化財は現社殿のほか三所権現と若宮(十一面観音)の神像があります。
 新宮は、御船祭(10月16日)と摂社・神倉神社の御燈祭(おとうまつり)(2月6日)であります。御船祭は速玉大社に遷座した熊野権現の来臨のさまを再現する祭りであります。御燈祭は勇壮な火祭りで、松明(たいまつ)を手にした2千人もの人が神倉山の急な石段を一気に駆け下りる神事で、もと熊野修験の修正会の火祭りで、年頭に共同体の罪穢(つみけが)れを懺悔し、攘災(じょうさい)・招福を目的としています。各社殿に祭祀されている三所権現、神像などや、古神宝類が重要文化財に指定されています。
 那智には、那智修験が伝承してきた勇壮な祭礼の扇祭り(7月14日)があります。別称「那智の火祭り」として広く知られています。那智滝の前で展開される扇と火の祭典であります。前日の宵宮祭には田楽舞・大和舞の奉納が行なわれます。そのうちの田楽舞は、中世後期に流行した
田楽踊りの芸態をよく残し、『那智参詣曼荼羅』にも「那智田楽」として描かれています。那智経塚からの出土遺物は貴重で、当時の信仰の有様をうかがわせるものであります。
(左)那智参詣曼荼羅(拡大) (右)十一面観音像 那智経塚出土
 

【神・神社とその祭神】《そのXX》 熊野三山 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

◎ ホームページアドレス http://www.pauch.com/kss/

Google