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●第12号メニュー(2006/12/17発行)
【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その1》

〔日本書紀抜粋 崇峻天皇推古天皇記〕〔日本書紀〕〔舎人親王〕〔蘇我馬子宿禰〕〔物部弓削守屋〕〔用明天皇〕〔穴穂部間人皇女〕〔田目皇子〕〔推古天皇〕〔橘寺〕〔大聖勝軍寺〕〔四天王寺



【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】
 

 先月の24日に播磨路を歩く機会があって、図らずも聖徳太子ゆかりの「斑鳩寺」や「鶴林寺」を参拝しました。京都史跡散策会では、第141回(平成12年8月20日催行)例会《播磨路名刹めぐり》をしています。その他にも、例会で聖徳太子ゆかりの寺院は数多く参拝していますが、臨地では、寺院の歴史や文化財に主眼を置いたので、肝心な「聖徳太子」に触れることが少なく、伝説を鵜のみにしてお話をしてきました。上記の2寺はもとより、聖徳太子信仰の中心的な寺院でありながら、現在、宗旨が天台宗になっていたりしています。ここで、太子信仰を改めて見直しをして、少しでもその謎を明かにしたいと考えています。
 「厩戸皇子」の実像や聖者「聖徳太子」の伝説や、それにまつわる関係のある寺院について、少しく掘り起こしをしたいと思いました。ともあれ『日本書紀』を重要な史料として読み解いて、謎解きをしたいと思います。まず『日本書紀』の原文とそれに関する一般的な説明をしてみました。手始めにめぐる人々≠ニ初期の寺院を紹介します。

(左)聖徳太子孝養像・元興寺蔵 (中央)聖徳太子勝鬘経講讃像・斑鳩寺蔵 (右)聖徳太子孝養像・善重寺蔵
 
〔日本書紀〕
奈良時代の養老4年 (720) に完成した日本の正史であります。全30巻でありますが、系図1巻は伝わっていません。編者は舎人親王・大安麻呂らであります。神代から持統天皇末持統10年(696)までの記事を、中国の史書にならって漢文・編年体で記述されています。帝紀・旧辞、各氏の伝承・外国史料などを素材としています。非常に潤色が多く、紀年も構成されたもので、年代がさかのぼるほど史実性に欠けますが、古代史研究の第一級の史料であります。
〔舎人親王〕(天武4年676〜735天平7年)
 奈良時代、天武天皇の皇子。「日本書紀」の編纂を主宰し、養老4年 (720)年に完成しました。その年の藤原不比等の死後,「知太政官事」として国政に関与します。死去に当り「太政大臣」となり、またその子大炊王(のちの淳仁天皇)が即位すると、「崇道尽敬皇帝」の称号を贈られました。
 厩戸皇子(聖徳太子)の足跡を『日本書紀』の記事でたどります。
『日本書紀』巻第21の崇峻天皇の記に、

「秋七月に、蘇我馬子宿禰大臣、諸皇子と群臣とに勧めて、物部守屋大連を滅さむことを謀る。泊瀬部皇子・竹田皇子・厩戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰−中略− 倶に軍旅を率いて、進みて大連を討つ。−中略− 志紀郡より澁河の家に到る。大連、親から子弟と奴軍とを率て、稲城を築きて戦ふ。是に、大連、衣摺の朴の枝間に昇りて、臨み射ること雨の如し。其の軍、強く盛にして、家に填ち野に溢れたり。皇子等の軍と群臣の衆と、怯弱くして恐怖りて、三廻却還く。
是の時に、厩戸皇子、束髪於額して、軍の後に随へり。自ら忖度りて曰はく、将、敗らるること無からむや。願に非ずは成し難けむ。」とのたまふ。乃ち白膠木を斬り取りて、疾く四天王の像に作りて、頂髪に置きて、誓を発てて言はく、「今若し我をして敵に勝たしめたまはば、必ず護世四王の奉為に、寺塔を起立てむ」とのたまふ。−中略−誓ひ巳りて種種の兵を厳ひて、進みて討伐つ。爰に迹見首赤檮有りて、大連を枝の下に射堕して、大連并て其の子等を誅す。是に由りて、大連の軍、忽然に自づからに敗れぬ。軍合りて悉に早衣を被て、広瀬の勾原に馳猟して散れぬ。是の役に、大連の児息と眷属と、或いは葦原に逃げ匿れて、姓を改め名を換ふる者有り。或いは逃げ亡せて向にけむ所を知らざる者有り。時の人、相謂りて曰はく、「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、妄に妻の計を用いて、大連を殺せ利り」といふ。乱れを平めて後に、摂津国にして、四天王寺を造る。大連の奴の半と宅とを分けて、大寺の奴・田荘とす。田一万頃を以て、迹見首赤檮に賜ふ。蘇我大臣、亦本願の依に、飛鳥の地にして、法興寺を起つ。

日本書紀 巻第十一 巻頭 前田育徳会蔵
 
〔蘇我馬子宿禰〕(?〜626推古34年)
 蘇我稲目宿禰の子です。蝦夷の父で、嶋大臣とも称しました。嶋大臣と呼ばれたのは、飛鳥川の傍に家を構え、庭に池を掘り、池中に小島を築いたためとされます。物部守屋大連の妹を妻としています。
 馬子は敏達天皇から推古天皇の4代にわたり大臣の地位にありました。『公卿補任』は在官55年としています。『日本書紀』には馬子を「武略有りて、また弁才有り。以って三宝を恭み敬う」と記述しています。
 蘇我氏は河内の石川(大和の曽我とする説あり)を本拠として、王権の財政管理権をにぎり、渡来人を支配下におき、急速に台頭した新興の氏族であります。馬子の父稲目の時に、はじめて大臣となり、二人の娘、堅塩媛と小姉君を欽明天皇の妃として外戚の地位を得て、繁栄の基礎を築き上げました。
 稲目のあとを継いで大臣となった馬子は、敏達天皇の死後、敏達の子、押坂彦人大兄の即位をはばみ、堅塩媛所生の大兄皇子の即位(用明天皇=厩戸皇子の父)に成功しました。この時厩戸皇子は13歳でありました。用明2年(587)、用明天皇は在位わずか2年で病没すると、皇位継承をめぐり、馬子は物部守屋と軍事衝突を起こし、守屋を倒しました。
 この結果、馬子は甥の泊瀬部皇子(崇峻天皇=厩戸皇子の叔父)を皇位につけましたが、両者に確執が生じ、馬子は崇峻天皇を暗殺してしまいます。
 この異常事態に、馬子は堅塩媛所生の炊屋媛(推古天皇)を皇位につけ、摂政となった厩戸皇子と共同して政治にあたりました。
 馬子の没年は推古34年(626)年とされ、埋葬された桃原墓は、飛鳥の石舞台古墳であると伝えられています。
(左)聖徳太子関係系図 (右)物部氏略図 (拡大)
 
〔物部弓削守屋〕(?〜587用明2年)
 物部大連尾輿の子で、母は弓削氏の阿佐姫であります。物部氏は軍事・警察・祭祀を担当する豪族でありました。
 敏達・用明朝に大連の地位にあった守屋は、時の大臣、新興氏族の蘇我馬子宿禰と対立しました。『日本書紀』は親子2代にわたる仏教受容の可否をめぐる両氏の対立を記しています。ですが、その本質は、蘇我氏が大王家の外戚の地位を固め、さらに物部氏の勢力圏にまでその力を及ぼすようになったことに起因する政界の主導権をめぐる権力闘争でありました。用明天皇没後、守屋と馬子はついに武力衝突におよびます。結果は守屋は敗死しました。守屋の遺領などは没収され、守屋討伐軍に加わった厩戸皇子もその分配に預かっています。
四天王立像(右から持国天・増長天・広目天・多聞天) 法隆寺蔵
 
『日本書紀』巻第22の推古天皇記に、

「夏四月の庚馬の朔己卯に、厩戸豊聰耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて録摂政らしむ。萬機を以て悉に委ぬ。橘豊日天皇(用明天皇)の第二子なり。母の妃を穴穂部間人皇女と曰す。皇后、懐妊開胎さむとする日に、禁中に巡行して、諸司を監察たまふ。馬司に至りたまいて、乃ち厩の戸に當りて、労みたまはずして忽に産れませり。生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壮に及びて、一に十人の訴えを聞きたまひて、失ちたまはずして能く辨へたまふ。兼ねて未然を知ろしめす。且、内教を高麗の僧慧慈に習ひ、外典を博士覚□に學びたまふ。並に悉に達りたまひぬ。父の天皇、愛みたまひて、宮の南の上殿に居らしめたまふ。故、其の名を稱へて、上宮厩戸聰耳太子と謂す。」

〔用明天皇〕(?〜587用明2年)
 欽明天皇の子で、蘇我稲目の娘の堅塩媛所生の長子(七男六女あり)でありました。同母妹に額田部皇女(推古天皇)があります。
 諱は大兄皇子(あるいは橘皇子)で、和風諡号は、橘豊日天皇、池辺天皇などとも記されます。厩戸豊聰耳皇子(聖徳太子)の父であります。
 敏達天皇の没後、皇位継承紛争で、蘇我馬子のバックアップにより、敏達天皇14年(585)に即位します。磐余の池辺雙槻宮に宮居しました。皇子を愛し、宮の南の上殿(上宮)に皇太子として居住させました。病となり仏教帰依をはかりますが、物部守屋に反対されます。在位わずか2年で病死されました。磐余池上陵に埋葬されますが、のちに河内磯長陵に改葬されました。用明陵とされる春日向山古墳(方墳)は大阪府南河内郡太子町にあります。
聖徳太子絵伝 (左)第三幅・太子の前世、入胎、誕生を描く。 (右)第四幅・太子幼少期。書を学ばれる様子などを描く。
〔穴穂部間人皇女〕(?〜621推古29年)

 欽明天皇の娘で、蘇我稲目の娘の小姉君(堅塩媛の妹) 所生の長女(四男一女あり)であります。
 同母弟に泊瀬部皇子(崇峻天皇)がいます。用明天皇の皇后となり厩戸皇子(聖徳太子)以下、来目・殖栗・茨田皇子を生んでいます。皇子の母は、蘇我氏の女であり、しかも両親は異腹の兄妹関係にあります。皇子は著しい近親婚によって生まれています。
 間人皇女は皇子出産の日、宮中を巡行し、馬宮に至り、厩の戸につき当り、苦しむこともなく出産しました。この話は厩戸の名を説明した話であるとされています。キリスト降誕説話を伝聞し、皇子の誕生に付会したものとする説もあります。
 なお、夫用明の死後、間人皇女は用明の子である田目皇子と結婚したと言われています。

〔田目皇子〕生没年不詳
 用明天皇の子であります。母は蘇我稲目の娘の石寸名で、多米王、豊浦皇子とも呼ばれています。厩戸皇子の異母兄であります。
 父用明の没後に、皇子の母である用明皇后間人皇女を娶り、佐富皇女をもうけたと伝えられています。著しい近親婚であり、田目皇子は用明の早い時期の子でありました。
 用明崩御の時、皇子は14歳であり、母の再婚がこれより遠からぬ時期とすれば、相当な精神的ショックであったと思われます。娘の佐富皇女は、皇子の子である長谷部王に嫁して葛城王・多智奴皇女をもうけています。なお、長谷部王は推古36年(628)、推古天皇没後の皇位継承紛争で急死しています。墓は大阪府八尾市太子堂にあります。
〔推古天皇〕(欽明15年554〜628推古36年)
 欽明天皇の娘で、蘇我稲目の娘の堅塩媛所生の第4子で次女であります。用明天皇の同母妹で、幼名を額田部皇女といい、和風諡号は豊御食炊屋姫天皇と称します。
 575年、敏達天皇皇后の広姫が亡くなり、翌年炊屋姫は敏達天皇の皇后になりました。時に18歳と伝えられていますが、崩年より逆算すると23歳となります。
 敏達天皇との間に2男5女をもうけました。敏達14年(585)、34歳のときに夫の敏達天皇に先立たれました。崇峻5年(592)、崇峻天皇が大臣蘇我馬子に暗殺される異常事態に即位して、推古天皇となります。わが国最初の女帝とされています。厩戸皇子と馬子の共同執政という政治形態を創出しました。推古陵とされる山田高塚古墳は大阪府南河内郡太子町にあります。
太子の里、飛鳥俯瞰
 
〔橘寺〕京都史跡散策会 第104回で参拝
 厩戸皇子(聖徳太子)は敏達3年(574)に、橘寺が建つこの地に生まれました。当時は皇子の祖父にあたる欽明天皇の橘宮が置かれていたところと伝えられています。父は後の用明天皇で、母は穴穂部間人皇女であります。禁中の厩の前で産気づかれたので厩戸皇子と呼ばれました。父母はともに欽明天皇の皇子・皇女にあたります。
 厩戸皇子は幼少の頃より深く仏教に帰依し、自らも経典を講義し注釈を加えたと伝えられています。特に有名なのは推古14年(606)、勝鬘経を推古天皇に講讃したことであります。この時、吉兆が相次ぎ天皇はこの地に寺を建立するよう皇子に命じました。聖徳太子建立の七ケ寺の一つであります。本尊は聖徳太子像であります。
 創建当時は金堂・五重塔など60余の堂塔が並び建っていましたが、度々の火災で衰微し、江戸時代(元治元年1864)に現在の姿に落ち着きました。発掘調査によれば四天王寺式の伽藍配置であることが明らかになりました。
 寺宝に聖徳太子勝鬘経講讃像・地蔵菩薩像・橘寺型石燈篭があり、ともに重文に指定されています。境内の二面石は人の心の善悪2相を表したといわれ、塔心礎と共に有名であります。
〔大聖勝軍寺〕京都史跡散策会 第190回で参拝
 上古の日本を騒がせた文化史上の事件の中でひときわ目立つのが仏教の受容をめぐる争いであります。崇仏派の蘇我氏と厩戸皇子、排仏派の物部氏があいまみえた争いであります。宗教的対立だけでなく、皇位継承の問題や支配権がからんだ政治的・経済的闘争としての一面も持っていました。
 大聖勝軍寺がしずまる河内の地は、物部氏の本拠地であり、最後の地となりました。寺の門前の石碑に「仏法元始聖徳太子古戦場」の文字がその史実を物語っています。
 用明2年(587)、物部守屋を討たんとして、厩戸皇子も戦に加わりますが、逆に窮地に追いこまれ、境内の椋の大樹の陰に隠れて難を逃れました。そして四天王に戦勝を祈願し、無事成就したことから椋のもとに一宇の草堂を築きました。のちに天皇に奏上し、境内に16町歩の大伽藍を建立しました。これより山号を椋樹山、寺号を勝軍寺と命名しました。

(左)大聖勝軍寺境内 (右)物部守屋の墓
 

 奈良時代に聖武天皇により「大聖勝軍鎮護国家寺」の名を与えられ、以後は手厚く保護されました。南北朝の動乱によって焼失しますが、のち再建されて現在に至っています。
 叡福寺の上の太子、野中寺の中の太子にたいして、下の太子と呼ばれています。境内には神妙椋が茂り、本堂には美しい半跏思惟像を祀っています。
〔四天王寺〕京都史跡散策会 第168回で参拝
 聖徳太子創建七ヵ寺の一つであります。物部守屋討伐戦の時、太子は白膠木で四天王の像を彫って、戦勝の暁には護世四天王の寺塔を起こして恩を無窮に報ぜんと祈願しました。勝利を得たので用明2年(587)に、難波の玉造の岸上に四天王像を安置しました。その後、推古元年(593)に現在の地に移して建立されました。日本仏法最初の官寺であります。また、敬田、悲田、施薬、療病の4箇院を構え、済世利民の実践所として物心両面の救済により平和国家・文化国家の樹立を目指しました。別名を荒陵寺・難波寺・三津寺、略して天王寺とも呼ばれています。
 平安時代の末に流行した浄土思想によると、当寺の西門は極楽の東門にあたり、彼岸の中日には大賑わいになりました。
 堂塔伽藍は創建以来たび重なる戦火天災に遭いその都度再建を繰り返しましたが、常に伽藍配置は飛鳥時代創建当初の姿を伝えています。境内全域が史跡に指定されています。中心伽藍は昭和38年に、創建当初の四天王寺式伽藍配置の姿で再現復興されました
四天王寺俯瞰
 

【厩戸皇子・聖徳太子の足跡】《その1》おわり  次号につづく
 

≪月刊 京都史跡散策会≫ 平成18年 バックナンバー メニュー
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江戸時代の大仏復興と公慶上人(後編)五劫思惟阿弥陀如来坐像について
佛涅槃図について 沙羅双樹と夏ツバキ
秀吉の大仏殿造営 百椿図について
北野の大茶の湯 黄金の茶室 華厳宗祖師絵伝
伏見築城とその前後 禅寺の年中行事
聚楽第の造営 聚楽第・伏見城の遺構 秀吉晩年の年表
お土居の築造 お土居跡見て歩る記
鎌倉時代の大仏再興と俊乗坊重源 三重・新大仏寺 大仏師 法橋 快慶
秀吉の醍醐の花見 醍醐寺と三法院 名石・藤戸石の由来
史上初 湖東三山の秘仏ご開帳 天台宗について
厩戸皇子・聖徳太子の足跡《その1》 
〔日本書紀抜粋 崇峻天皇・推古天皇記〕〔日本書紀〕〔舎人親王〕〔蘇我馬子宿禰〕〔物部弓削守屋〕〔用明天皇〕〔穴穂部間人皇女〕〔田目皇子〕〔推古天皇〕〔橘寺〕〔大聖勝軍寺〕〔四天王寺〕


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