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●第16号メニュー(2007/4/15発行)
【聖徳太子信仰の流れ(その2)《法隆寺前篇》】

〔斑鳩寺(法隆寺)創建への歩み〕 〔東院伽藍(若草伽藍跡)の造営〕



【聖徳太子信仰の流れ(その2)《法隆寺前篇》】
 
〔斑鳩寺創建への歩み〕
 

まず、一般的に知られていろ聖徳太子の時代とその背景をあらためて見なおします。
 厩戸皇子、つまり聖徳太子は敏達天皇の3年(574)に生まれ、史上初の女帝推古天皇のために、19歳のとき摂政になりましたが、当時は皇室の主導権がまだ確立されていないため、政情は常に不安定でありました。大和朝廷内部の豪族間の勢力争いが主な原因で、特に蘇我氏と物部氏との対立が大きく表面化し、太子は蘇我馬子と連繋して守旧派の物部氏を滅ぼしてからは、開明派の蘇我氏の勢力が皇室を圧迫するほどの強さになっていました。
 しかし、太子は蘇我氏と結んで大陸文化の摂取につとめ、ことに仏教文化を盛んに吸収しようとされています。蘇我氏の建立した法興寺に対して、太子が斑鳩寺(法隆寺)を建てられたことは、皇室が正式に仏教導入に肩を入れたことになり、当時の最新の大陸文化を太子は進んで取り入れました。十七条の憲法を作ったり、冠位十二階を制定したのはその具体的な現われであります。

(左)夢殿内部 (右)救世観音
 
 また、天皇記や国記をあらわして、皇室中心の統一国家の形成につとめましたが、これは大陸における新しい大帝国隋と国交を開くことによって、宿敵である新羅との対決を有利にみちびこうとしていた日本の体制づくりでもありました。
 そのころは、まだ素朴な農耕社会で、農民たちは自然発生的な集落のなかで生活していました。農民は国造、県主、村首などによって支配され、大化改新以前はこれら支配層による農地、農民の私有化が目立っていました。大陸の最新の文化と技術を身につけて移住してきた帰化人たち――僧侶、寺工、瓦工、鑢盤工、画工――は、このような情勢のなかで有利な地位を手に入れ、仏教の布教と寺院建設のために大いに活躍しました。法興寺、法隆寺、四天王寺などは、このような帰化人群によって造られたと云っても過言ではありません。
 厩戸皇子(聖徳太子)は推古13年(605)、磐余の上宮から20キロほど離れた太子の妃のひとり膳部大郎女の出身地である膳部氏の本貫の地、斑鳩の地(現在の法隆寺(東院伽藍)に斑鳩宮を造営しました。
 この頃、太子は父用明天皇の菩提のため、斑鳩寺つまり法隆寺(若草伽藍)の建立に手をつけ始めました。そして『日本書紀』によれば、天智8年(670)の夜半の火災で一屋余すところなく焼失したと記されています。
(左)聖徳太子坐像 (右)行信僧都坐像
 
 太子は、蘇我氏の氏寺である法興寺(飛鳥寺)に対して、表面は「仏法興隆」のためと称していますが、上宮王家の私寺として新たなる形で仏教の受容を考えていました。
 今は若草伽藍と推定される空き地には、火にあった赤色を帯びた古瓦や木の木舞(壁土を塗るための下地の材)が焦げたままに残り、廃墟の空しさがただよっています。かつての日、呪の業火に焼け落ちたことを確証する痕跡を残しています。ここには、現在の西院とことかわって、すべてに厩戸皇子の体臭が紛々と匂っています。
 ここは、太子が死去した推古30年(622)から20年後の皇極2年(643)に、太子一族が蘇我入鹿の凶手と暴虐に悲惨きわまりない終焉を迎え、斑鳩宮すべてが焼失して廃墟と化したところであります。
 『法隆寺東院縁起』によれば、その後、法隆寺の僧行信僧都が、この荒廃した跡を訪ねて流涕感嘆したことが機縁となり、春宮阿部内親王(後の孝謙天皇)が藤原房前に命じて、天平9年(737)から11年かけて東院(斑鳩宮跡)が造営されました。
 この斑鳩宮で太子は何を思い何を悩んでいたのでしょうか。上宮(飛鳥)を離れた太子はその身辺をめぐる血を洗う凄惨な地獄絵図への回想ではなかったのでしょうか。そして住居を斑鳩の地に移しました。それは『伝暦補註』や『古今目録抄』の裏書によってみれば、大和平群飽波郷(今の安堵町一帯で斑鳩の東に隣接している)の葦垣宮といわれています。ここで太子が生涯の終わりを、ひたすら瞑想や執筆(三経義疏)に没入していたと思われます。
 敏達天皇が葬られてから、物部氏と結んでいた穴穂部皇子、宅部皇子につづいて、崇峻天皇が蘇我氏のために弑逆されました。危機と悲劇はここに始まります。この両豪族闘争のかげに、蘇我馬子のために天皇一族殺害の刺客の役を買った殺し屋、渡来人東漢直駒であります。崇峻天皇の遺体は、殯宮儀礼もなく、暗殺された日に捨てられたように、そのときの都であった倉梯宮(今の桜井市倉梯)の近くに埋葬されました。この悲劇の裏面には、崇峻天皇の妃であった大伴狭手彦の娘小手子媛が寵愛の衰えたのを恨み、ひそかに天皇が馬子への殺意のあることを馬子へ密告しました。馬子はこれを聞いて、倉梯宮に東国の調を進むと詐り、群臣の面前で東漢直駒に殺させました。これによって馬子は権力と威厳を誇示しました。のみならず馬子は東漢直駒が、入内して嬪となっていた馬子の娘河上娘を盗み出し、ひそかに妻にしていたことを知って、直駒を殺害しています。
東院伽藍全景
 
 血族国家の帝王と貴族との間に起きた、血で血を洗う凄惨かぎりない地獄絵図は、太子14歳から19歳までの青年の日々の出来事でありました。
 皇位継承をめぐる豪族の対決、政治の底無しの謀略などを、多感な青春のときに、心を痛めていました。それに加えて、皇位継承と豪族政権の争闘に明け暮れした応神天皇以来の惨禍は、日々繰り返される悲劇として日常化され、人々の心を麻痺させ、良心をさえ、その生活感覚から失わせたのであります。
 これらの惨劇の底にひそむ、崇峻妃の嫉妬と密告、馬子の恐怖と復讐、権力に妄執する男のあがき、そうした止まるところを知らない奔放さを、日々身に感じたのが太子の青春時代でありました。特に太子の母穴穂部間人皇女の同胞は5人、そのうち2人は早世し、穴穂部皇子、宅部皇子の2皇子と崇峻天皇は相次いで非命に倒れました。しかも太子は、その穴穂部皇子の異母姉妹炊屋姫(敏達天皇皇后、後の推古天皇)と、その叔父蘇我馬子が主導権をもって動いているところに姻族として自らの位置を占めねばならないところにありました。そのうえ、異母兄弟、義理の親子、叔父と姪、叔母と甥の間にも夫婦関係があり、兄弟相姦も珍しくない複雑多岐な錯綜した人間関係の葛藤のなか、宿命的な位置に太子は置かれていました。

(左)薬師如来坐像 (右)釈迦三尊像
 

 太子の母もそうした絆から、所詮逃れることは出来ません。父用明天皇没後に、継子で太子の異母兄多米王と再婚して佐富王女を産んでいます。母の行動に癒し得ない傷跡を残しながら、八方から迫る険悪さをそれとなく感じていたと思われます。
 19歳の太子がことの真相を知ったのは後年のことであります。野望に燃えるべき若き日に、皇位継承者の位置にありながら、なぜ遮られていたことに、若い太子はひそかに絶望に思い悩んだことだと思います。
 倉梯宮の惨事ののち、群臣協議して豊御食炊屋姫が豊浦に即位しました。これが推古天皇であります。豊御食炊屋姫は太子3歳のとき敏達天皇の后となり、天皇崩じて橘豊日皇子を推して、太子の父用明天皇(31代)として即位せしめました。587年用明天皇は崩じました。時に太子は14歳でありました。ついで豊御食炊屋姫は泊瀬部皇子を推し、崇峻天皇となります。炊屋姫の支持で即位した崇峻天皇が馬子と対立して殺害されたことは、姫の立場をいろいろの意味で苦境に追い込んでいます。しかし炊屋姫は39歳で、最初の女帝推古天皇として即位しました。その翌年、太子は摂政となります。
 摂政となった太子に課せられた使命は、危機と不安に立つ天皇家のため、いかなる改革によって、これをどう切り開いていくかにありました。わけても豪族蘇我馬子とどう対決し、どう協同するかという多難な問題もありました。
 そしてこの太子の改革が、それから20年後の大化改新の先駆的意味をもつ政治理想への第一歩のように見ることが出来ます。だが、革新とか改革とかいうものを理想国家体制への政治改革でなく、血ぬられて狂った権力の消長であり、暴力によって生まれた人間の欲望による怨恨と復讐の不条理の改革でありました。
 太子はこのような憎悪と貪欲の激流のなかにあって、出発点から政治に絶望し、挫折を予感していた人でありました。それゆえに天皇統治の姿勢を教化し、新しい外交路線をつくり、憲法十七条や冠位十二階を制定しました。これらの革新らしい一連の政治政策を行ないますが、以後、政治への絶望と限界、空しさを胸中にひめた太子のこころには、凄惨な影をなげかける寒々としたものでありました。荒野のような太子の孤独と虚無の中から浮かび上がって、次第に姿を現してきたのが斑鳩寺(法隆寺の前身)の創建でありました。
法隆寺境内地図 (拡大)
 
 太子が政治的関心から後退して孤独と寂寥に沈んだときに出た言葉に「世間虚仮」があります。また、日本の夜明けを願い求めたのが法隆寺の建立であります。
 太子はこの法隆寺造営に直接関係したかどうかは、その創立年代とともに不明であります。しかし、いずれにしても、太子の心の形を面影として伝えていることだけは確かであります。その太子も、この建物のゆえに、独創性に富み、聡明で、万能の人であり、文明の偉大な摂取者、政治・外交・美術・建築の指導者と仰がれました。
 斑鳩寺があったと云われる若草伽藍跡に、現在残るただ一個の心礎だけが、古代の謎として残されています。方3m、高さ1,2m、重量12tの、何の変哲もない、普通の石であります。いかなる事情か、明治以後、庭石として寺外に持ち出され、転々として、上面に穴まであけられて、昭和14年10月に寺に帰ってきました。ほぼ、元の位置に置かれました。太子在世中の建物がほとんどみな消滅してしまった今日では、この石だけがただ一つ昔の謎を語る貴重な存在となっています。他は金堂の釈迦三尊、薬師如来などを除いて一物も残さず消失してしまっています。
 また、太子の住居と推定される東院伝法堂の地下にある斑鳩宮、法隆寺の前身と考えられる斑鳩寺(若草伽藍)は飛鳥前期に創立され、比較的早く焼失したことが調査によって明らかになっています。
 太子ゆかりの寺、法隆寺は焼失したまま、ながらく放置されていましたが、和銅3年(710)、平城遷都を契機として、ほぼ8世紀に金堂・五重塔をもつ西院と夢殿の東院など、現在の法隆寺が完成しました。
(左)聖徳太子坐像 (右)若草伽藍跡
 
 
〔東院伽藍(若草伽藍跡)の造営〕
西院伽藍の東方約300mのところに東院と呼ばれる伽藍があります。厩戸皇子(聖徳太子)が推古6年(601)に「斑鳩宮」を建てられたところで、太子は宮の完成以来、ここに住まれることが多く、愛馬「黒駒」にまたがり、調使丸という従者を従え、飛鳥宮で政務をとるために通われたと伝えられています。現在も斑鳩と飛鳥を結ぶ古道を人々は、「太子道」と呼び、太子を厚く敬慕しています。
 太子は国家の制度の確立、文化の向上、仏教の興隆など数々の聖業を残され、推古30年(622)2月22日に薨じられました。時に太子49歳でありました。この時の人々の悲嘆の様子を『日本書紀』は詳しく伝えております。
 その後も、山背大兄皇子をはじめとする太子の一族は斑鳩宮に住まわれていましたが、皇極2年(643)蘇我入鹿は巨瀬徳太古臣、土師娑婆連の軍勢をもって、斑鳩宮を襲撃させ、太子の一族は宮もろとも滅亡しました。
 永い間、太子の故宮が空しく荒れるにまかせていたのを見た行信僧都は、天平11年(739)春宮阿部内親王(後の孝謙天皇)に申請してこの地を復興し、太子を供養する殿堂を建立したのが、この東院伽藍であります。太子のことを「上宮王」と呼ぶことから、太子の寺「上宮王院」とも呼ばれています。建立当初の伽藍の規模は、「東院資材帳」によると、寺地の広さは東西各47丈、南北52丈で、瓦葺の八角円堂を中心として、桧皮葺回廊、桧皮葺門2棟、桧皮葺屋3棟、瓦葺講堂、瓦葺僧房2棟がありました。 太子等身の観音菩薩を本尊として、太子の遺愛の品々の多くを安置し、年々太子を供養する法会を行ってきました。
 それ以来、太子への信仰がこの伽藍を中心として発展し、貞観年間(859〜876)には道詮律師の発願によって伽藍の大改修が行はれ、従前の掘立柱や桧皮葺は悉く改められ、ほぼ現状の姿に改修されました。また、8世紀の末頃から太子の伝記が多く作られるにともなって、八角仏殿を「夢殿」と呼ばれるようになりました。それは太子在世当時から夢殿があり、太子は参篭して仏から数々の教示を得たとする伝説に由来しています。
 特に、この伽藍は建立当初から法隆寺とは別の組織の寺でありましたが、10世紀のころから法隆寺に属するようになり、法隆寺付属の一伽藍となりました。
 夢殿は伽藍の中心にある八角円堂で、本尊には救世観音像を安置しています。救世観音は古来、太子等身の像と伝えられ、東院は太子を供養する伽藍でありました。
 本尊を安置する下の壇には東院を建立した高名な行信僧都像と貞観年間に再興して功績のあった道詮律師像を安置しています。本尊救世観音は、像高180cmの長身の木彫で、飛鳥時代の仏像に共通する杏仁形の眼、微笑をたたえた唇によく特色があらわれています。寺伝によると、この像は太子の念持仏であったとし、特に中世の頃から秘仏となり、明治初年まで永く厨子の扉が閉ざされていました。
 この夢殿の前庭では太子を供養する「聖霊会」が元禄4年(1691)に移されるまで、年々厳修されていましたが、現在、聖霊会は使われる舞台をはじめとして、多くの法具類はすべて東院所属のものであることが、そのことを物語っています。このように夢殿は太子信仰の発揚の中心的道場として、今にその法統を伝えています。
 
聖徳太子信仰の流れ(その2)《法隆寺前篇》完


≪第16号完≫
 

編集:山口須美男 メールはこちらから。

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