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●第49号メニュー(2010/1/17発行)

【巷の小社の神々】京洛編《その6》

〔福王子神社〕 〔木島神社〕 〔敷地神社〕 〔平野神社〕

〔大将軍八神社〕 〔今宮神社〕 〔西院春日神社〕


〔福王子神社〕 京都市右京区宇多野福王子町
 
 福王子神社は光孝天皇皇后班子女王を祭神とするこの地の産土神であります。古くは仁和寺の鎮守神として崇敬されていました。班子女王は宇多天皇そのほかの皇子皇女を多く生んだので「福王子」と称されました。昌泰3年(900)4月1日に崩御され、同4日に葛野郡頭陀(ずだ)寺の辺りに埋葬されましたが、頭陀寺が当社の付近にあったところから、当社はその陵墓であろうといわれていますが明らかではありません。本殿は寛永21年(1644)、仁和寺宮覚深法親王の造営になる一間社春日造で、向拝蟇股に社名に因んでふくろうの彫刻があります。拝殿もその頃の造営であり、石造の鳥居とともに3件が重文に指定されています。
 毎年10月18日に行われる祭礼には、神輿が仁和寺で奉幣をうける慣わしがあります。
 〔夫荒(ぶこう)社〕は、本殿の傍らにあり、夫荒神を祭祀しています。この夫荒が転訛したのが福王子と云われています。社伝によると、むかし丹波の氷室より献納する氷を運ぶ役夫が、猛暑で氷のとけるのをおそれて疾走し、遂にこのところで気息が絶え死んでしまいました。その霊が崇ったので、ここに祀ったと伝えています。これは疫伏(やくぶく)神が役夫(やくぶ)となり、のちに役の字が脱落して夫荒となったと云われています。
(左)福王寺神社本殿(拡大) (右)福王寺神社 鳥居・拝殿(拡大)
 
〔木島神社〕(蚕の社) 京都市右京区太秦森ヶ東町
 
 木島(このしま)神社は双ヶ丘の南方、太秦の東の広漠たる土地に鎮座する旧郷社で、社名は境内の老杉巨樹が繁茂しているさまが、あたかも木の島にみえるところから社名となりました。また、一説には秦氏の根拠地にあった「蚕の島」の転訛とも、社の森である元糾の森が島のようにみえたからとも云われています。正しく木島坐天照御魂(このしまにますあまてるむすびのかみ)神社といい、俗に「蚕(かいこ)の社」として知られています。これは境内社に蚕の社(養蚕神社)があって、木島神社よりこの方が一般に信仰されています。
 当社の創建は非常に古く「続日本紀」によれば、文武天皇の大宝元年(701)4月丙午(ひのえうま)に「山背国月読神、樺井神、木島神等の稲を今より以後は中臣氏に給え」という勅が出ているので、それ以前の鎮座であることは明らかであります。魂(むすび)は産霊(むすび)の転訛したもので、むすとは物を産(む)す(創造する)ことであります。この霊能を神格化したのが高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かむむすびのかみ)であり、いわゆる造化の神として、上古にあっては信仰の中心にありました。
 当社はこの地方の原住民が五穀豊穣を祈って、高皇産霊神を祀ったものと考えられますが、一説には社名に因んで天照御魂命すなわち天照国照彦天火明命ともいわれています。
 かつては葛野郡中有数の大社として、延喜の制には名神大社となり、4度の官幣および相嘗祭、祈雨祭にあずかり、とくに祈雨の神として崇敬されています。社前の池はこの祈雨の祭壇にもちいられていました。
 古来から天候をつかさどる神として朝廷の尊崇をうけ、山城五社の一つに数えられ、『梁塵秘抄』にも「稲荷も八幡も木島も 人の参らぬ時ぞ無き」と詠われています。社前の常行灯に「磐座宮」と刻まれ、磐座信仰の名残を示しています。
〔三つ鳥居〕は本殿の西にあります。元糺の池の中に3本の石柱のある三方正面の石鳥居があります。三つ組鳥居とも三面鳥居ともいい、明神鳥居を三つ組み合わせた、平面正三角形としたものであります。柱に「天保二年(1831)」の刻銘があります。中心に石を盛った神座があり、御幣を立てています。池の水は境内を流れ、土用の丑の日に手足をつけると、しもやけ・脚気にならないというご利益がありましたが、現在は清泉がかれてしまい電動ポンプを使っています。
 水は古代人が集落を営むに必須のもので、太秦地方はこの清泉によって開拓されていったと考えられます。
(左)福王寺神社本殿蟇股(拡大) (中)木島神社本殿 (右)木島神社神座(拡大)
 
〔養蚕神社〕は本殿の右側にあり、蚕の神を祀っています。太秦は養蚕機織をつかさどった秦氏の繁栄地であったので、これに因んで祀られたもので、養蚕機業家や製糸業家の厚い信仰があります。
 また、末社には三井家の祖といわれる三井越後守高安命を祀る顕名(あきな)神社と、承久の乱で後鳥羽上皇方について当社境内で戦死をしたという院の武士、三浦胤義を祀った魂鎮(たましずめ)神社があり、またこの付近にあった椿丘神社などを合祀しています。
 
〔敷地神社〕(わら天神) 京都市北区衣笠天神森町
 
 俗称「わら天神」で有名です。木華咲耶姫(このはなさくやひめ)を祭神とする衣笠町の産土神であります。古くは北山ノ神と称し、もと北山天神丘(金閣寺西北)に祀られていましたが、足利義満が北山殿を営むに際しこの地に移したものといわれています。
 天長5年(828)淳和天皇は勅使をつかわし止雨を祈願され、また木華咲耶姫の故事にちなみ安産守護の神として信仰されています。俗にわら天神というのは当社の授ける御符に、わらの節があれば男子、節がなければ女子がうまれるとの俗信によるものであります。
〔六勝神社〕は本殿の傍らにある摂社で、稲倉魂神を主神とする六柱神を祭祀しています。社伝には奈良より移したものと伝えていますが、もと衣笠山麓にあった六所明神を勧請したものと思われます。社名に因んで入学試験や勝負ごと祈願の信仰があります。
 なお境内西南隅にはもと清盛塚とよぶ古墳があって、当社ははじめこの古墳上に祀られていました。本殿西にある神木綾杉明神は、むかしここが天神ノ森と称し、うっそうたる樹木の生い茂っていた往時の面影をとどめるものであります。
(左)敷地神社本殿(拡大) (右)平野神社本殿(拡大) 
 
〔平野神社〕 京都市北区平野宮本町
 
 平野神社は、延暦13年(794)桓武天皇が平安遷都の際、大和国から今木神、久度神、古開神、姫神の4柱を勧請したのが当社の起こりであります。社伝によると、今木神は桓武天皇の生母で百済系の高野新笠の祖神で、大和国高市郡今木の今木神を延暦3年(784)に長岡遷都のとき移し、ついで平安遷都後まなくここに移されました。今木は「いまき」すなわち新来の帰化人の意といわれます。久度神は大枝朝臣土師宿祢が祖神を祀った大和平群郡20座の久度神社であります。古開(ふるあき)神と久度神は同一で、久度神は百済の祖尚古王の子仇首王(日本音くど)であります。姫神は神を奉斎する女性の意であります。
 四神とも竃の神とされ、今木=今食(いまけ)、久度=煙抜きのあるかまど、古開=天皇死後空器となったかまどのこと、姫神=炊(かし)ぐことを諸民に教えた神としています。
 代々朝廷の尊崇を得て、延喜の制では名神大社に列し、天元4年(981)以来、度々の行幸がありましたが、中世以来衰微します。
 現在の本殿は、江戸時代に再建されたもので、桧皮葺き、比翼春日造りという2棟が接続した特殊な形をしています。左右両殿のあいだに横棟を渡して相の間をつくり、正面に向拝をつけ、一見して三間社のように見えます。第一殿・第二殿は寛永3年(1626)、第三殿・第四殿は寛永6年の建立で、重文に指定されています
 
〔大将軍八神社〕 京都市上京区一条通御前通西入ル
 
 この地は平安京右京一条の大宮の西にあたり、御室を経て嵯峨に至る街道の要衝であります。古くは大将軍堂といい、祭神は素盞鳴命五男三女の神と聖武・桓武両天皇を祀っています。社伝によれば、桓武天皇が平安京遷都にあたり、王城鎮護の方除神として大和国春日より勧請し、京都の四方に営まれた大将軍社の一つであると伝えています。
 大将軍といえばもと陰陽道にいうところの神で、西方の星、太白(金星)の精といわれる宵の明星のことであります。五行思想において金行は西にあたり、その色は白、性質は殺伐、そこで太白といい、大将軍といいます。
 大将軍は3年のあいだ方伯(方位をつかさどる神)となって四方の地を守り、12年で一巡すると考えられ、歳徳神・天一神・金神などとともに吉凶をつかさどる方位の神として畏敬されています。
 八神とは、大歳神・大将軍・大陰神・歳刑神・歳破神・歳殺神・黄旛神・釣尾神であります。かかる陰陽道の信仰は帰化人によってもたらされ、神道と習合して素盞鳴命ともなり、仏教と習合して牛頭天王となりました。当社が素盞鳴命を祀るのはこのためであります。
 また、素盞鳴命をこの地に祀ったのは、ここが平安京大内裏の西北角にあたり、道饗(みちあえ)祭の場所でありました。道饗祭とは、京外より侵入する悪神を、京の四隅の路上で饗応し、侵入をおしとどめるためにとりおこなう祭儀をいいます。
(左)大将軍八神社本殿(拡大) (右)今宮神社楼門(拡大)
 
 古来より当社は方除けの神、疫病除けの神として朝野の崇敬をうけ、「山塊記」によれば、治承2年(1178)11月12日、建礼門院徳子が皇子(のちの安徳天皇)を出産するに際し、平家一門が諸社寺とともに「大将軍堂」に安産祈願をしています。それ以前にすでに神社があったことがわかります。中世には祇園八坂神社の支配下にありました。応仁の乱で消失しています。天文4年(1535)に再建され、江戸時代に大将軍八幡宮と改名しています。
境内には、本殿・拝殿・神饌所・社務所があり、また宝物館には大将軍をあらわした衣冠束帯の神像22体、武装神像43体があり、いずれも鎌倉末期より室町時代の造顕になるもので、その丹塗りの行粧は疫神たることをあらわしています。
 
〔今宮神社〕 京都市北区紫野今宮町
 
 今宮神社は、上古、京都の町衆が疫病退散を願って疫神を祀ったのが起こりであります。『続日本紀』によると、宝亀元年(770)6月、疫神を平安京の四隅に祭らしめたと記されています。平安遷都以来、京都に全国から人々が移住し、都市生活が確立されるにつれて災厄や伝染病が多く発生しました。朝廷は非業の死を遂げた早良親王(崇道天皇)らの怨霊の崇りとして、貞観5年(863)に、神泉苑でそれらの霊を慰めるために御霊会を催しました。また、町衆も自衛上疫神を祀って御霊会を行いました。当社もその一つで、一条天皇の正暦5年(994)6月、日本各地で疫病が大流行したとき、朝廷では木工寮修理職をして神輿をつくり、疫神を船岡山にまつって御霊会を執り行い、終わって難波の海に流したことが『日本紀略』に記されています。
 ついで長保3年(1001)5月、再び疫神の示現があったので、現在の地に神殿三宇(祭神 大己貴命・事代主命・奇稲田姫命)を造営し、勅使をつかわして東遊走馬を奉り、盛大に御霊会を行っています。これを今宮祭とか紫野御霊会などといわれています。このとき勅使藤原長能は

   今よりはあらふるこころましますな 花のみやこにやしろ定めつ (御拾遺)

との一首の和歌を詠んで神霊をなだめますが、疫病は治まらず、その後もしばしば猛威をふるって都の人々を苦しめたので、その都度朝野を挙げて御霊会が行われました。
 当社は古くから朝野の崇敬もあつく、中世の兵乱の際にも今宮祭は絶えずに続けられ、今日に至っています。鎮座地は船岡山の北方、大徳寺の背後にあって、広い神域には本殿はじめ多くの摂社・末社を有しています。本殿は明治35年の再建で、その左にある摂社疫神社は、今宮神社がこの地に鎮座する前からこの地にあったといわれ、祭神には悪疫病災を除く素盞鳴命を祀っています。例祭のやすらい祭も御霊会から生じた祭りであります。
 末社織姫神社は氏子西陣の機業家が建立したもので、織物の始祖とされる桍幡千千姫(たくはたちぢひめ)命を祭神としています。境内には多数の末社があって古社の風格をよく備えています。
(左)今宮神社本殿(拡大) (右)疫神社(拡大)
 
〔西院春日神社〕 京都市右京区西院艮町
 
 春日神社は、奈良の春日神を勧請したもので、淳和院の鎮守でありました。淳和院は別名西院といい、淳和天皇が皇太弟の時代に造営した離宮で、のちに後院となりました。当初は南池院といわれ、弘仁元年(8
10)嵯峨天皇が行幸しています。その後淳和院と改称されました。淳和天皇は天長10年(833)この院で仁明天皇に譲位して、承和7年(840)にここで崩御されました。その後、淳和天皇の皇后の正子が寺として自らが住まい、仏教の道場としました。淳和院の廃亡後、旧西院村の産土神として信仰されました。本殿には祭神建御雷(たてみかずき)命・斎主(いわいぬし)命・天児屋根命・比売神の4座を合祀しています。
〔還来(もどろぎ)神社〕は、神楽殿の傍らにあり、春日神社の境内末社であります。古来旅行安全、交通安全を守る神として信仰され、戦時中には出征兵士の無事帰還を祈る人で賑わいました。「もどろぎ」とは旅に出る人が無事に家に戻ることをいったもので、むかしは旅行安全をいのる神として猿田彦神が信仰されていました。猿田彦とは天孫降臨にあたって先導をつとめた神とされ、その性格が、道の辻にたって悪魔をふせぎ旅人をまもるという道祖神(塞神(さえのかみ))に付会され、のちには同一視されるようになりました。

(左)若宮神社(拡大) (中)春日神社本殿(拡大) (右)還来神社(拡大)
 


≪月刊京都史跡散策会49号≫【巷の小社の神々 京洛編】(その6) 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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