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●第64号メニュー(2012/3/18発行) |
【日本の名庭を訪ねて】《そのT》 |
〔金閣寺(鹿苑寺)庭園〕 〔蓬莱島〕 |
義満は、当時明と直接貿易を行い、莫大な利益をえていました。それらの財産を湯水のごとく費やして造られたのが北山殿(鹿苑寺)であります。 舎利殿すなわち金閣は,建物中で最も重要な建物で、三層楼閣の庭園建築であります。義満は金箔を張り陽光に輝く金閣舎利殿に仏舎利を祀りました。そして金閣の前面池中には蓮花を植え、九山八海石を据えて、金閣を中心として展開した広い庭を、曼荼羅に描かれている七宝池に意味させて、金閣と池庭とでもって極楽浄土の様相を具現したのであります。また、明との国交を開いた義満は、この山荘にあって、和歌・管弦・猿楽などに興じ、北山文化の花をひらかせました。 義満は応永15年(1408)に病死します。遺言により子の義持が山荘を禅刹に改め、夢窓疎石を勧請開山に、寺号を義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けました。 北山殿の華麗な建物は多く移転され、舎利殿である金閣と護摩堂、法水院を残すのみとなりました。しかし金閣は昭和25年(1950)に放火により焼失しますが、5年後に再建されました。平成6年(1994)「古都京都の文化財」として、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。庭園は国の特別史跡・特別名勝に指定されています。 鎌倉時代の後半、皇統が二つに分かれ、双方から交替に天位についた時代(約1260〜1320)、その誰を皇太子に立て、いつ天皇の譲位を求めるか、という皇室の重大問題に対して、最後的の発言権を持っていたのが西園寺家でありました。 この家は、京都西山に北山殿を営み、それを西園寺と号しました。西園寺家が栄えたのは、当時の朝廷が大覚寺統と持明院の両統に分かれて皇位を相争うたからであります。双方紛争を有利に解決してもらおうと思って、皇室が西園寺家のご機嫌を伺われたものですから、大変な権力を持つことができたのです。 それが、南北朝時代となって、相争う皇統が両方に分かれて、それぞれ勝手に天位に即かれることとなって、もう西園寺家の仲介も斡旋も不要になりました。そこで西園寺家の威勢は急に落ちて没落してしまいました。そのときに手をさしのべたのが足利3代将軍義満です。応永4年(1397)正月15日、自領の河内国の一部と北山山荘と交換し、これを譲り受けました。 |
蓬莱島(葦原島)を望む(拡大) |
この西園寺公経の造営した北山殿と庭園は、長男実氏の時になって完成したものであって、ほとんど当初の風貌を持ったままで、義満の手に移りました。庭園は様式、手法、構成からみて、いずれも鎌倉中期であって室町時代などの作庭ではありません。 山荘を自分のものとした義満は、早速、山荘を修理し、寝殿(住居)を作りました。普請奉行十六人、頭衆二十人を定め、大和・河内・和泉の御家人に命じて、正月中旬に着工し、4月には移住しています。これらの費用と人夫は諸国大名に命じています。 現在、拝観者が最初に金閣に出会う場所には、かつて釣殿がありました。釣殿は寝殿造りのなかの一要素で、主殿である寝殿に向かって建てられていました。典型的な寝殿造りでは、三角形の頂点に寝殿を、左右の点に釣殿を配置しています。釣殿は名称どおり釣り糸を垂れるところでありますが、館では寝殿を眺める役も果たしています。そこで寝殿の美しさは釣殿からの眺めを最高としました。拝観者が記念撮影する地点こそ、金閣が最も華麗に見える地点こそ釣殿があった所であります。 満々と水を湛える池の名称は鏡湖池であります。いまはほぼ円形でありますが、かつてはさらに南側に広がり瓢箪のかたちをしていたといわれています。『とはずがたり』巻三に、弘安8年(1285)の当時の西園寺家の主は、皇族を釣殿から三艘の舟に乗せて舞楽・連歌に興じたとあります。これによって金閣の庭はもと池泉舟遊式であったことがわかります。 池泉の面積は、約2070坪、全庭は約5400坪の大庭園で、西園寺時代から名園のほまれ高く、貞治元年(1362)3月13日には後光厳天皇の臨幸があり、義満の時代になってからは、応永15年(1408)3月8日に後小松天皇の行幸があり、江戸時代には、寛文元年(1661)9月29日には後水尾天皇の行幸がありました。作庭当初から、ほとんど改造らしい改造が行なわれなかったことからも名園の名をほしいまにしています。 |
庭園の中心となっている池泉はほぼ円形であります。西部の中央には東に向かって大きな出島が形成されており、この出島の線と、池泉の中の最大の島(蓬莱島・葦原島)とは直線で結ばれています。しかも、北部の金閣の正面にこの島が位置しているので、蓬莱島は、金閣と平行線上に浮かんでいます。 金閣の西部には、出亀、入亀の両島と淡路島と称する三島があり、これが、斜線に構成されて、金閣と結ばれています。 このような蓬莱山水庭園は、もちろん、浄土式庭園様式が影響していて、この斜線構成の三島は、蓬莱様式からみて、それぞれ、方丈、壺梁、瀛洲としての役割を持っているのであります。このことは池泉舟遊の浄土式庭園の形式を残していることです。 池泉の中の一番大きい島である蓬莱島(葦原島)の護岸は、典型的な鎌倉中期の風貌を示す手法であります。豪健で、典雅な三尊石組による護岸で、出島の護岸、中島、岩島にも共通した手法であります。 葦原島は「豊葦原水穂国」というように日本国を表現しています。この葦原島が最も壮大に見えるのは、島の正面のやや右側に堂々とした三尊石が組まれているからで、この石組みのかたちは西芳寺(苔寺)の三尊石組に倣ったものと思われます。 また、池の水面に枝振りのよい小松を植えた中小の島々や九山八海石などと呼ばれる離れ石などは、室町時代前期の姿であります。 葦原島の左端には、鉤のような形の石がすっと立っています。管領細川頼之が寄進したもので、通称細川石と呼ばれています。このほか池のなかには、寄進者の名をとった畠山石、赤松石などが据えられています。 葦原島と金閣の間に鶴島・亀島があり、鶴島の北側には九山八海石があります。金閣の西側にはもうひとまわり大きな出亀島・入亀島という二つの亀島が対をなしています。 九山八海石とは、古代インドの宇宙観で、字義どおり九つの山と八つの海で、一つの世界を表現した石であります。 金閣殿のすぐ東脇に四つの石が直線状に配置されています。舟が仮泊している姿を表現した夜泊石であります。またここは池に舟を浮かべて遊ぶときの船着場ともなります。 このように池のなかの島々はただ何となく配置されているのではなく、一つひとつの島がどのような役割を果たしているのか、それを知ることによって庭への理解が深まります。 足利義満はこの苑池の造営に当たり夢窓国師作と伝える名園、西芳寺(苔寺)庭園をモデルにしています。また瑠璃殿・無縫閣は金閣のモデルでありました。金箔を張ったのは義満の発想で、それを見た京童が金閣と名付け、いつしか俗称として定着しました。 応永15年(1408)3月、後小松天皇は招かれて義満の北山殿に行幸になっています。その前年には、行幸にそなえて北御所の寝殿を新築し、多くの新殿を造り、天皇の御殿は八棟造として金色の八龍を立て、御殿の西北二方には早咲きの桜を並木に植え、地上に五色の砂を鱗形に敷き、その中に金銀の造花をまきちらし、その縁に銀の筋金を入れたと、『足利治乱記』に記されています。北山殿の最も絢爛豪華な時代であって、この日こそ、北山殿最良の日でありましが、その二ヵ月後に義満は病死しました。 金閣は当初池中にあり、その北側に天鏡閣という会所を設け、その両者を空中廊下で結んでいました。盛時にあった多くの殿舎は義満没後、ほとんどの建物が寺院などに移築されました。 |
左から九山八海石と鶴島、亀島、後方は蓬莱島(拡大) |
義満の没後、その後継将軍を誰にするかについて足利氏自身の内訌がありましたが、結局はその子義持が4代将軍に就任しました。義持は父義満の政策に反対し、反義満の機運に乗じて将軍就職の目的を果たしました。 義持が将軍職を継ぐと、翌年には北山殿の取潰しがはじめられました。その建築の一部は義持の室町殿に移され、一部は南禅寺や建仁寺に下げ渡され、北山殿は次第に荒廃してゆきました。しかし、8代将軍義政が西芳寺に詣でてその庭園を観賞したとき、鹿苑寺庭園は決して西芳寺に劣るものではない類いまれな名園と称えています。 金閣の背後を奥に進むと、銀河泉、厳下水を経て龍門瀑という滝の前に出ます。高さ約二mで、落下する滝の水は鯉魚石に当たり飛沫を上げています。鯉魚石とは、激流を跳ね上がり鯉がいままさに龍と化す姿を表す石で、登竜門の故事に倣ったものであります。 鏡湖池の北上方にある安眠沢は、衣笠山麓からの湧水を湛えた自然池であり、それが下段の鏡湖池の景観に強力に関係を持つ給水源であります。龍門瀑の滝の石組みを伝って鏡湖池に流れ続けています。 |
神仙四島をさらに顕著に表現しているのが岩島であります。峻厳な表情の石組みが水面から頭をのぞかせている景であります。 金閣殿すぐ横の池のなかに、ほぼ同形同大の石が四石、一列に並んでいます。これは夜泊石と呼ばれ、蓬莱島へ往来する宝舟が港に停泊する姿を表しています。 |
【日本の名庭を訪ねて】《そのT》〔金閣寺(鹿苑寺)庭園〕完 つづく |
編集:山口須美男 メールはこちらから。
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