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●第41号メニュー(2009/5/17発行)
【神・神社とその祭神】《そのXXI》吉備津神社
〔はじめに〕 〔吉備津神社とその祭神〕 〔吉備津彦神社とその祭神〕
〔吉備津神社の建築〕 〔吉備津の釜 鬼がうなる〕

〔はじめに〕
 
 今日も吉備地方の人口に膾炙(かいしゃ)しているのは勇壮な「吉備津彦(きびつひこ)の鬼退治」の神話であります。この神話は吉備津彦命を祭神として祀っている吉備津神社の縁起に記されています。ここにその神話の大要を紹介します。
第10代崇神天皇のころ、吉備国に異国の鬼神が飛来してきました。この鬼神は百済の王子で、名は温羅(うら)ともいい、吉備冠者とも呼ばれていました。彼の両眼は爛々(らんらん)として虎狼(ころう)のようで、蓬々(ぼうぼう)と茂る顎(あご)鬚(ひげ)や頭髪の赤きことは炎のようで、身長は1丈4尺(約4.2m)。膂力(りょりょく)は絶倫、性(さが)は剽悍(ひょうかん)で凶悪でありました。彼はやがて備中国新山に居城を構えます。しばしば西国から都に送る貢物を運ぶ船を襲ったり、付近の婦女子を略奪(りゃくだつ)するなど、人民は恐れ戦(おのの)いて「鬼(き)の城(じょう)」と呼びます。都に行ってその暴状を訴えました。朝廷は大いにこれを憂い、将を遣わしてこれを討たしめますが、彼は兵を用いることすこぶる巧みで、出没は変幻自在、容易に討伐し難かったので、むなしく帝都に引き返してきました。そこでつぎは武勇の聞え高い孝霊天皇の皇子五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)(吉備津彦命)が派遣されることとなります。
吉備津神社境内古地図(部分) 吉備津神社蔵
 
 ミコトは、大軍を率いて吉備国に下り、まず吉備の中山(いま、この山の東西の麓に備前と備中の吉備津神社が鎮座している)に陣をしき、西は片岡山に石楯を築いて防戦の準備をしました(いまの倉敷市矢部西山の楯築神社は其の遺跡という)。
 さて、いよいよ温羅と戦うことになりますが、もとより変幻自在の鬼神ことであるので、戦うこと雷霆(らいてい)のごとくその勢はすさまじく、さすがのミコトも攻めあぐんでしまいました。だが、不思議なことに、ミコトの射る矢はいつも鬼神の矢と空中で噛み合って、いずれも海中に落ちてしまいます(今日も吉備郡生石(おおいし)村にある矢喰宮はその弓矢の化した巨石を祀っている)。
 ミコトはここに神威を表わし、強弓をもって一時に二矢を発射しました。ところが、これは鬼神の不意をつき、一矢は前のごとく噛み合って海に落ちますが、余す一矢は狙いたがわず見事に温羅の左目に当たりました。流れる血潮はこんこんとして流水のごとく迸しり、その流れは血吸(ちすい)川と呼ばれるようになりました。さすがの温羅もミコトの一矢に辟易(へきえき)し、たちまち雉と化して山中に隠れますが、機敏なミコトは鷹なってこれを追っかけたので、温羅はまた鯉となって血吸川に入って跡を晦(くら)ましました。ミコトはやがて鵜となってこれを噛み揚げました(今そこに鯉喰宮がある)。
 温羅は今は絶体絶命、ついにミコトの軍門に降って、おのれの名の「吉備(きび)冠者(かじゃ)」の名乗りをミコトに奉ったので、それよりミコトは五十狭芹彦命を改称して吉備津彦命と名乗ることとなりました。ミコトは温羅の頭を刎(は)ねて串に挿してこれを曝(さら)しました。
 しかし、この首が何年たってもうめき声を発して唸(うな)り響いて止みません。ミコトは部下の犬飼健(いぬかいたける)に命じて頭の肉を犬に食べさせます。肉は食べ尽されて髑髏(どくろ)となりますが、なおもうめき声はやみません。そこでミコトはその首を吉備津宮の釜殿の下八尺を掘って埋めますが、なお十三年の間、うめき声は近隣に鳴りひびきます。ある夜、ミコトの夢に温羅の霊が現われて、「吾が妻、阿曾郷(あそごう)の祝(はふり)の娘阿曾媛(あそひめ)をしてミコトの釜殿の神饌(みけ)を炊がしめよ。もし世の中に事あれば竃(かまど)の前に参り給わば、幸あれば裕(ゆた)かに鳴り、禍(わざわい)あれば荒らかに鳴ろう。ミコトは世を捨てて後は霊神と現われ給え。吾は一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げました。その後、温羅のうなり声は、聞こえることが無かったと。
(左)備中神楽の鬼ノ面 (右)備中神楽の大吉備津日子大神
 
 この「一品吉備津彦大明神縁起」は延長元年十二月五日、菩提院沙門円会僧正の謹書とありますが、この縁起が延長元年(923)に書かれたとは、にわかに信じることは出来ません。
 温羅の精霊は「丑寅(うしとら)みさき」として吉備津神社の釜殿に祀られていますが、また本殿(正宮)の艮(うしとら)の隅に丑寅明神として祀られています。後白河天皇の撰になる今様歌謡集『梁塵秘抄』の中に、
 「一品精霊(いっぽんしょうょう)吉備津宮、新宮・本宮・内の宮、隼人崎(はやとさき)、北やの神客人(かみまろうど)、艮(うしとら)みさきは恐ろしや」
という今様歌が載っています。この今様歌が編纂された平安末期、すでに吉備津宮の中の「丑寅みさき」は恐ろしい精霊として人々に畏敬されていたことがわかります。今も備中・備後の村々の中には吉備津宮の「丑寅みさき」を氏神として祀っている家が多くあります。      これは平安朝から陰陽道的な信仰によって温羅征伐の神話が潤色されたと思われますが、おそらく古代において吉備津彦命の凶賊退治という神話はある程度の歴史的事実の投影が
あったのではないかと考えられています。
 
〔吉備津神社とその祭神〕
 
 吉備津神社と吉備津彦神社は、主祭神は同じで、『古事記』では大吉備津彦命とみえ、『日本書紀』では、吉備津彦命と記されています。前者は、備前・備中国境をまたいでそびえる吉備の中山の、備中側に鎮座し、後者は備前側に鎮座しています。吉備津神社が備中国の一ノ宮であり、吉備津彦神社は備前国の一ノ宮であります。吉備の中山を挟んで鎮座する両社が、同じ神を主祭神として祀り、同じく一ノ宮であったのは、備前・備中・備後・美作(みまさか)は、7世紀後半に分割されるまでは、吉備という一つの国であった歴史を反映しています。
 吉備津神社の主祭神は大吉備津彦命で、『日本書紀』に、崇神天皇に派遣された四道将軍のひとりとして、吉備津彦命の名で登場する神で、桃太郎伝説のもとになった鬼退治の神話を伝えています。
吉備津神社本殿及び拝殿の側面
 
 社伝によれば、吉備国を平定した吉備津彦命は、吉備の中山の麓に宮を築き、この地で没しました。のち仁徳天皇
の行幸を機に、宮跡に社殿が造立されました。
 仁寿2年(852)に官社に列し、平将門(まさかど)・藤原純友(すみとも)の乱にあたって、鎮定祈願の成就から、天慶3年(940)神階最高位の一品(いっぽん)を授けられました。以後一品吉備津宮と称しています。祭神は大吉備津彦命を主祭神とし、相殿に、主祭神の兄弟である倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)命・日子刺肩別(ひこさすかたわけ)命・倭迹々日稚屋(わかや)姫命と、異母兄弟の千々速比売(ちちはやひめ)命・彦寤間(ひこさめま)命・若日子建(わかひこたて)吉
備津日子命と、そして、若日子建吉備津日子命の孫である御友別(みともわけ)命、その子の仲彦(なかつひこ)命の8柱を祀っています。
 『古事記』では、大吉備津彦命は孝霊天皇と意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめ)命との間にできた御子神であります。そして異母弟の若日子建吉備津日子命とともに「針間(はりま)の氷河(ひかわ)」(現在の兵庫県加古川市付近)で安全を祈り災厄を祓う祭祀を行ったうえで、天皇の支配に従属していない吉備国を平定し旧岡山県上道郡周辺(現在岡山市)を拠点とした「吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)」という一族の始祖になり、以後その子孫がこの地方に繁栄し、勢力を振るいました。
 一方、『日本書紀』では、吉備津彦命は、孝霊天皇と倭国香媛(やまとくにかひめ)との間に出来た御子神であります。そして崇神天皇10年9月に天皇の支配に従わない勢力を討伐するため「北陸(くぬがのみち)、東海(うみつみち)、西道(にしのみち)、丹波(たには)」のそれぞれに4人の将軍(四道将軍、天皇の命で天下平定のため地方に派遣された軍事・行政長官)の一人として山陽道の吉備国に遣わされ吉備地を統治する任にあたりました。また同年吉備津彦命は、謀反を企てた武埴安彦(たけやすひこ)・吾田媛(あたひめ)夫婦を大彦命(おおびこのみこと)と力を合わせて討伐し、天皇の危急を救ったとされています。さらに崇神天皇60年には、天皇への神宝奉献を拒んだ出雲振根(いずものふるね)を、武淳河別(たけぬなかわわけ)とともに討ち果たしました。
 ご神徳は、産業興隆、延命長寿、家内安全、厄除け、病気平癒、子育て守護など。
(左)艮の御崎の祠 (右)吉備津神社本殿下陣(突き当たりに艮の御崎の祠が見える)
 
〔吉備津彦神社とその祭神〕
 
 吉備の中山の北東麓に鎮座する、旧国幣小社で、主祭神は大吉備津日子大神(おおきびつひこのおおかみ)(吉備津彦命)であります。吉備国が7世紀後半ごろに分割されると、備前国の一ノ宮として、歴代国司に尊崇されていました。
 一品吉備津彦宮、備前鎮守一品吉備津彦大明神とも呼ばれ、また夏至の日に、太陽が正面鳥居の真向かいの山から昇ることから、朝日の宮とも称していました。
 神仏習合の時代には、神宮寺や神力寺、常行堂、摂社末社など、51宇を数え、広大な境内と多数の荘園を有していました。
 永禄5年(1562)、日蓮宗への改宗を迫る金川城主松田元賢(もとかた)によって社殿は焼かれましたが、江戸時代には岡山藩主池田家の崇敬をうけ、元禄10年(1697)、池田綱政のとき社殿が再建されました。昭和5年(1930)、火災で社殿を焼失しますが、三間社流造りの本殿と随神門は類焼を免れています。 
吉備国は、律令制成立以前はさまざまな勢力が国造(くにのみやつこ)として割拠し、大和朝廷に反旗を翻(ひるがえ)す一族がいました。それらの勢力を平定したのが、『古事記』『日本書紀』によると、孝霊天皇の御子神である大吉備津日子大神(おおきびつひこのおおかみ)(吉備津彦命)であります。
 社伝によると、大吉備津日子大神は孝霊天皇と倭国香姫(やまとくにかひめ)との間にできた御子神で、彦五十狭芹彦(ひこいさせりびこ)命の別名もあります。崇神天皇10年に四道将軍のひとりとして山陽道方面の平定に遣わされることになりますが、出発する直前に謀反を起こそうとした武埴安彦(たけやすひこ)・吾田媛(あたひめ)夫婦を討ち、その後、吉備国に向かい平定の任務を果たしました。
吉備津彦神社本殿
 
 大吉備津日子大神は、281歳で天寿を全うし、吉備の中山に葬られました。その後、ミコトの子孫がその霊を祀るために創建したのが、吉備津彦神社であります。群雄割拠の状態を平定した大吉備津日子大神を、吉備の中心をなす中山に祀りました。その後、ミコトの子孫がその霊を祀るために創建したのが、吉備津彦神社であります。
 なお、相殿には、主祭神と血縁関係にある御子(みこ)吉備津彦命(稚武(わかたけ)吉備津彦命)、吉備津彦命御祖神(みおやのかみ)(大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)=孝霊天皇)、大日本根子彦国牽(くにくるの)天皇(孝元天皇)、稚(わか)日本根子彦大日日(おおひひの)天皇(開化天皇)、御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえの)天皇(崇神天皇)、日子刺肩別(ひこさしかたわけ)命、大(おお)倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)命、大倭迹々日稚屋日売(わかやひめ)命、天足彦国押人(あまたらしひこくにおしびと)命の神々と、金(きん)山彦(やまびこ)大神、大山咋(おおやまくい)大神が祀られています。
 稚武吉備津彦命は、主祭神の御子、孝霊天皇は主祭神の父親、孝元天皇は主祭神の異母兄弟で、開化天皇はその御子にあたります。崇神天皇は開化天皇の御子で、主祭神を四道将軍に任じて吉備平定を命じた天皇であります。また、日子刺肩別命は『古事記』にのみ登場する主祭神の兄であり、大倭迹々日百襲姫命と大倭迹々日稚屋日売命は、主祭神の姉と妹であります。
 血縁以外の神に、鉱山の神の金山彦大神が含まれるのは、「眞(ま)金(がね)吹く吉備」の国の社(やしろ)であることからか。
 
〔吉備津神社の建築〕
 
 吉備津神社は、備中国の一ノ宮であるだけでなく、その分祀も備前国と備後国のそれぞれの一ノ宮となっています。それら吉備三ヶ国を合わせた総一ノ宮であります。
 祭神は大吉備津彦命を主神とし、他に八座の神を相殿神としてお祀りしています。創始については明らかではありませんが、この神社の東南に聳える吉備中山の山頂に大吉備津彦命の墓があり、その一族後裔が吉備国の総鎮護として奉斎しました。
 平安時代初期には神階を授けられ、かつ官社に列しますが、とくに承平・天慶の乱に際して、その鎮定のための奉幣があり、天慶3年(940)には一品(いつぽん)の極位(ごくい)に達し、一品精霊(いっぽんしょうれい)と呼ばれるようになりました。他神社では正一位のような位階が与えられますが、吉備津神社は珍しく品位(ほんい)が与えられており、明らかに一般神社とは区別されています。それは、祭神が孝霊天皇の皇子の大吉備津彦命と関係があり、皇子の霊廟としての性格があります。そして、そのことが、他神社とはかけ離れた規模や形式をもつ特異な本殿を創出させる要因となりました。
吉備津神社本殿朱の壇
 
 現在の本殿は、棟札等によって応永32年(1425)の再建になることは明らかですが、それ以前の沿革については知ることができません。康平4年(1061)に炎上し、その後まもなくして再興されましたが、正平6年(1351)に社頭ことごとく焼失しました。かくて明徳元年(1390)足利義満が再建を命じ、応永8年(1401)に仮遷宮、32年に正遷宮されました。
 現存する吉備津神社の本殿は、前方の拝殿と屋根を連ねた複合社殿であります。本殿は、正面5間、側面8間もあって、厳島神社本殿とともに全国最大の本殿であります。白漆喰の異様に高い土壇(亀腹)上に建っており、他に類例のないものです。また、屋根も特異であって、前後に入母屋造を二つ並べて中央を連結した比翼入母屋造であります。
 拝殿は、正面1間、側面3間の身舎(もや)に切妻造妻入の屋根を架け、後方は本殿屋根と接続しています。拝殿身舎は、背面を除き3面に瓦葺の裳腰屋根をつけているので、外観は二階建てに見えます。本殿と拝殿身舎は桧皮葺であります。
 本殿内部の構成も異例であります。一般的には、神社本殿の内部に人が入らないものですが、この本殿は江戸時代までは俗人が参入し、本殿内の各所に祀られている諸神を順拝していました。
 本殿内部は、中央に正面3間、奥行2間の内々陣を構え、主祭神が鎮まっています。内々陣だけは閉鎖的で、板壁と厚い扉で閉ざされています。内々陣の正面に内陣が置かれ、内々陣と内陣の四周を一段低い中陣が取り巻いています。中陣の正面には、さらに一段低い朱(あけ)の壇(だん)(向拝の間)が設けられ、神主の礼拝の場となっています。そして、それらの四周を下陣が再び取り囲んでいます。中陣と下陣の境には、柱と高欄があるだけで、柱間は開放されています。下陣には連子窓が並んでいて、神社本殿にしては珍しく開放的であります。
吉備津神社拝殿正面扁額 三島毅筆 「平賊安民」
 
 中陣の正面両隅や下陣の四隅には、御崎宮(おんざきぐう)と呼ばれる小本殿か安置されています。特に下陣正面の向かって左隅に置かれている艮(うしとら)御崎宮は古くから著名で、治承3年(1179)に成った『梁塵秘抄』にもその名が現われています。
 この特異な本殿の構成は、平安時代後期に成立したと考えられています。古くは、内々陣や内陣部分だけから成る本殿と、その前方の朱の壇部分に相当する拝殿とが独立して建ち、その周囲に御崎宮の少祠が置かれ、それらを回廊が取り巻いていたと思われます。
 現在の拝殿の古称は舞殿で、これも独立していました。それらの諸社殿を一宇の大建築にまとめあげたのが現在の形式です。比翼入母屋造の二つの千鳥破風の大棟は、かつての本殿と拝殿の名残であり、明るい下陣は往古の回廊と思われています。
 もう一つこの本殿で特異なものは、天竺様(大仏様)の意匠が混入されていることです。特に組物では肘(ひじ)木(きを柱に直接に差し込む挿肘木や、斗(ます)の下部に皿状の張り出しをつけた皿斗が使われていることです。神社本殿では唯一の天竺様の応用例であります。
 奈良東大寺大仏殿再建に天竺様を移入した重源との関係が考えられます。「南無阿弥陀仏作善集」によれば、重源は12世紀末から13世紀初頭のころ、備中吉備津社に結縁のために鐘一口を施入しています。そのとき社殿の造営中であった当社を訪れており、その際に導入されたと考えられています。
(左)吉備津神社本殿及び拝殿の平面図(拡大)
 (右)吉備津神社本殿及び拝殿(拡大)
 
〔吉備津の釜 鬼がうなる〕土曜ナントカ学 5月2日付 朝日新聞から
 
 「ブオオオン、ブオオオン」
 真っ黒にすすけた社殿に、鼓膜をピリつかせるような音が鳴り響く。桃太郎に討ち取られた鬼の首が、いまも地下で上げる「うなり声」だという。
 岡山市の吉備津神社。桃太郎伝説で知られるこの神社には、「鳴釜神事」と呼ばれる不思議な儀式が伝わる。神社の長い廊下の先に立つ御釜殿。そこで米を蒸すと、自然に釜が鳴り出し、その音色で吉凶を占う。
 御釜殿には土の竈(かまど)があり、その上に鉄の釜とセイロが載せられている。阿曹女(あそめ)と呼ばれる地元の巫女(みこ)たちが釜で湯を沸かし、火を払った後に湯気の立ち上がるセイロの上で、生玄米を蒸すようなしぐさを行う。玄米を入れた容器を振り、神官が唱える祝詞(のりと)が終わりかけるころ、それをセイロの奥に向けてぐっと差し込む。すると、ほどなく「ブオオオン」と、セイロがうなり出す。
 岡山県が桃太郎伝説発祥の地とされるのは、吉備津神社周辺に伝わる「温羅(うら)伝説」と呼ばれる鬼退治の話がルーツだ。
鳴釜神事が始まると釜から湯気が立ち上がる。やがて釜が「うなり声」をあげた=岡山市の吉備津神社(拡大)
 
 社伝などによると、第11代垂仁天皇の世に、身の丈4bを超える鬼神の温羅が吉備へとやって来て、乱暴を働いた。後に神社の祭神とされる吉備津彦が、朝廷から派遣されて温羅を倒し、討ち取ったそのドクロを御釜殿の下、約2.6bの地中に埋めたとされる。
 吉備津彦とは、日本書紀にも登場する孝霊天皇の子の五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと)のことだ。桃太郎のモデルとされる。
 温羅伝説に詳しい吉備路観光ボランティアガイドの前野晃一さん(69)によれば、神社の周辺には「鬼が手形を残した岩屋や鬼の血が流れた血吸川、鬼の釜など、温羅伝説に登場する地が多く残されている」という。
 神社から北西に約10`。国指定史跡の鬼城山(きのじょうざん)(397b)の頂上付近に「鬼ノ城(きのじょう)」と呼ばれる遺跡が残る。温羅の根城と伝わる山城だ。
 06年からここの発掘調査をしている岡山県古代吉備文化センターの大橋雅也さん(46)によると、この山城を築いたのは温羅ではなく、大和朝廷側らしい。
 朝廷は7世紀に朝鮮進出を試みたが、「白村江の戦い」(663年)で大敗。外国勢力が日本に攻め込んでくる危機が生じた。そのため、西日本の要所に多くの山城を築いたという。「鬼ノ城も、そんな防衛施設のひとつ。築城は675年ごろのこと」と大橋さん。
 桃太郎と戦ったという温羅は、本当に吉備にいたのだろうか?
文・久保田裕 写真・荒井昌明
 また、この吉備津彦命の温羅征伐の物語を、昔話の「桃太郎」に結び付けて、桃太郎のモデルを吉備津彦命とするお話があります。
 吉備津彦命と温羅の結びつきは、昭和5年に出版された「桃太郎の史実」(難波金之助著)から始まります。また、大洞窟(鬼ヶ島にある鬼の根城)を発見した橋本仙太郎氏が昭和7年に「鬼無伝説桃太郎さん鬼ヶ島征伐」という本を出したことで、だんだんと桃太郎伝説が広まっていきました。
 吉備国は、「黍(きび)の国」を語源としています。桃太郎が老婆に持たされた黍団子は、吉備津の地が発祥とも言われています。桃太郎の鬼退治に従った犬・雉・猿は、吉備津彦命の随身の犬飼健(いぬかいたける)命、留玉臣(とめたまおみ)命、楽々森彦(ささもりひこ)命になぞられます。
 犬飼健命は、「憲政の神様」と呼ばれた犬養(いぬかい)毅(つよし)の先祖であります。留玉臣命は、犬飼健命とともに吉備津神社の南随神門に祀られている中田(なかた)古名(ふるな)命といわれ、鳥飼部(とりかいべ)を称しています。楽々森彦命は、備中足守の豪族・猿飼部(さるかいべ)の祖であります。鯉に姿を変じた温羅を鵜となって追い詰めたのは、楽々森彦命であるという伝承もあります。
 吉備津彦命の温羅征伐が「桃太郎」の鬼退治と重なりあって、吉備路はいまも、神話の世界が息づいています。
(左)吉備の中山と神池に浮かぶ亀島(里宮の神の依代)(拡大)
(右)茶臼山古墳 大吉備津日子大神(吉備津彦命)の御陵 吉備の中山にある(拡大)
 

≪月刊京都史跡散策会41号≫【神・神社とその祭神】《XXI》吉備津神社 完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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