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●第25号メニュー(2008/1/20発行)
【神・神社とその祭神】《そのX》
【出雲に鎮まる大国主神の物語】 【出雲大社】 【出雲の神】

【出雲に鎮まる大国主神の物語】
 
 『古事記』『日本書紀』ともに大国主神と記されています。『古事記』では須佐之男命の6世の孫。天之冬衣アメノフユキノ神と刺国若比売サシクニワカヒメとの子。またの名として大穴牟遅オオナムジ神、葦原色許男アシハラシコオ神、八千戈ヤチホコ神、宇都志国玉ウツシクニタマ神の計五つの名をあげています。
 『日本書紀』では本書に大国主神の名は見えません。八段一書第一に清之湯山主三名狭漏彦八嶋野スガノユヤマヌシミナサルヒコヤシマノの五世の孫とあり、同段一書第六に、またの名として大物主神・国作大己貴命・葦原醜男シコオ・八千戈神・大国玉神・顕国玉ウツシクニタマ神をあげています。
国宝 出雲大社本殿 側面
 
 大国主神を主人公とした神話は、@稲羽(因幡)の白兎神話、A根の国神話、B八千矛神の神話、C国作り神話、D国譲り神話があります。
 
@  オオクニヌシ(大国主神)には、大勢の兄弟がいました。それで兄神たちを八十神といいました。国を治めることはすべてオオクニヌシに任せていました。八十神たちは、稲羽の国にヤガミヒメ(八上比売)という美女がいると聞いて、みな自分の妻にしようと、そろって稲羽に出かけました。兄神たちは、オオクニヌシに袋を背負わせ、従者としていました。
 やがて気多の埼サキにさしかかると、毛皮を剥がれた裸のウサギが地に伏していました。八十神たちは、そのウサギに海の潮をあびて、高い山の頂に行って、風に吹かれて寝ているといいと、でたらめを教えていました。ウサギはそのとおりにすると、潮がかわくにつれて皮膚がヒリヒリと痛み、たえかえて泣き伏していると、そこへオオクニヌシがきて、尋ねると、ウサギは、隠岐の島からこの国に渡ろうと思ったが、手立てのないまま、ついにワニザメをだまし数くらべにかこつけて、この岬まで並べさせて渡ったが、もう一息のところで、この計略を知ったワニザメに捉まり、丸裸にされたのだと話しました。八十神に教わったとおり、潮に浸り、風に吹かれていると、皮が破れ、よけいに悪くなったと訴えました。
 そこでオオクニヌシは、川口へ行って、その真水で身体をよく洗い、そこに生えている蒲の穂綿をとって地に敷き、その上に転げまわると良いと教えました。ウサギはその通りにすると、はたして、元どおりの身体になりました。
 すっかり喜んだウサギは、オオクニヌシに、八十神たちは、決してヤガミヒメ(八上比売)を得ることは出来ないだろう。袋を背負っているがあなたこそ、ヒメを得られるだろうと云いました。
  『是に八上比売、八十神に答へけらく、吾は汝等の言は聞かじ。大穴牟遅神に嫁あはなと言ふ』。これからオオクニヌシの受難がはじまります。
大穴牟知命 青木 繁画
 
A  八十神たちは、ヤガミヒメがオオクニヌシのものになったことを知ると、彼を殺そうと謀ります。そして、猪に似た大きな焼け石を、赤猪だとだまして、山の上から転がして、待ち受けて受け取らせ、彼を焼き殺してしまいました。
 そこで、オオクニヌシの母神は泣き悲しんで高天原に昇って、カミムスビ(神産巣日神)の助力を頼みました。カミムスビは貝の女神キサガイヒメ(赤貝)とウムガイヒメ(蛤)をつかわし、彼らが作った火傷の妙薬でオオクニヌシを麗しき壮夫オトコに蘇らせました。それを見た八十神は、またも欺いて山に連れ出し、今度は大きな樹木を切り倒して、その割れ目の中に誘い込み、楔をはずして挟み殺しました。そこで、また母神がそれを見つけ出し生き返らせました。
 母神はオオクニヌシを木の国(紀伊)のオオヤビコ(大屋比古神)のもとに逃がしましたが、なおも八十神は追ってくるので、ついにスサノオのいる根の国へと逃げました。
 しかし、そこでもオオクニヌシはスサノオの試練にあい苦難と戦います。オオクニヌシは最初、蛇の室に入れられますが、スサノオの娘スセリヒメ(須勢理比売)にもらった蛇の領布ヒレで、難を免れます。つぎは、「呉公ムカデと蜂の室」に入れられましたが、また、スセリヒメからもらった領布で、逃れることが出来ました。次は鳴る鏑の矢をとり、野原の中に射こんで、オオクニヌシにとらせました。彼がその野原に入ると火が放たれます。しかし、今度は野鼠に助けられました。
 それを知ったスサノオは、八田間の大室にオオクニヌシを呼び入れ、頭のシラミをとらせます。よくみると、それは呉公ムカデでありました。さきほどより様子を窺っていたスセリヒメは、オオクニヌシに椋の木の実と赤土を与えました。オオクニヌシは椋の木の実を噛みくだき、赤土を口に含んで吐き出しました。それを見たスサノオは呉公を噛みくだくとは大した男だ、といいながら寝てしまいます。
(左)大国主大神立像 (右)御穂津姫と事代主神 美保神社蔵
 
   そこで、オオクニヌシはスサノオの髪を室の垂木に結びつけ、五百引石で室の戸を塞ぎ、スセリヒメを背負い、スサノオの生太刀・生弓矢・天の詔琴を持って逃げだしました。そのとき詔琴ノリゴトが樹木にふれ音を立てたので、目を覚ましたスサノオは、黄泉ヨモツ平坂まで追いつめますが、そこでついに、スサノオはオオクニヌシがいままでの試練に耐えぬいたことを認め、スセリヒメを嫡妻とし、宮居を築き、出雲の王になれといいます。
 オオクニヌシは出雲に帰り、スサノオから贈られた生太刀と生弓矢をもって八十神を坂の下に追い落とし、川辺まで追い払って、ついに国づくりを開始しました。
 ヤガミヒメは、前の約束どおりオオクニヌシと結婚しましたが、嫡妻のスセリヒメに遠慮して、オオクニヌシとの間に生まれた子を、木の俣にはさんで、かえってしまいます。それで、その子を木俣の神、またの名を御井の神といいます。
 ついで、オオクニヌシは、高志国(越後・越中・越前・能登)のヌナカワヒメ(沼河比売)に求婚しようと、その家に出かけて行って、神語歌カミガタリウタをおくりました。
B  八千矛ヤチホコノ神というまたの名で、歌謡を中心に神話が展開します。高志国の沼河比売への求婚、それに対する須勢理比売の嫉妬と和解は、「このように歌い、酒杯をかわして仲直りし、互いの首に手をかけて、今にいたるまで鎮座しているよ」。と 
  「八千矛の神の命は 八島国 つままぎかけて とほとほし 高志の国にさかしめを ありときかして くはしめを ありときこして さよばいに ありたたし よばひに ありかよはせ 太刀が緒を いまだとかずて 襲オスヒをも いまだとかねば をとめの寝すや板戸も 押そぶらいわがたたせれば 引こづらい わがたたせれば 青山に ぬえはなき さ野つとり きざしはとよむ にはつとり かけはなく うれたくも なくなるとりか このとりも うちやめこせね いしたうや あまはせづかひ ことのかたりごとも こをば」
  これを聞いたヌナカワヒメは、まだ戸を開かずに、内から歌を返します。
   「八千矛の神の命は ぬえくさの 女にしあれば わがこころ 浦渚ウラスの島ぞ いまこそは ちどりにあらめのちは などりにあらむを いのちは な死せたまいそ いしたふや あまはせづかい ことの かたりごとも こをば 青山に日がかくらば ぬばたまの よはいでなむ あさひの ゑみさかえきて栲綱の しろき腕 あわゆきの 弱ワカヤるむねを そだたき たたきまながり 真玉手 玉手さしまき 股ながに 寝イは宿ナさむを あやに な恋ひきこし 八千矛の神の命は ことの かたりごとも こをば」
大社縁結図 歌川豊国画
 
   オオクニヌシは、嫡妻のスセリヒメのほかに、五人の妻を持っています。スセリヒメは、たいへん嫉妬深い性質だったので、他の妻をたいそう妬んでいました。それでオオクニヌシは、ほとほと困ってしまい、大和の国へ旅立とうとします。
 ミコトは、片手は馬の鞍に、片足は鐙にかけて、「わたしはこれから旅立つが、あなたは泣かないといっても、泣くだろう」といいました。
 スセリヒメは、手に持った酒盃をオオクニヌシにささげ、「あなたは男だから、どこ
へ行っても妻をもてるでしょうが、わたしは女ですから、あなた以外に夫はありません。どうか、他所には行かずに、わたしと一緒に寝てください」といいました。
 そこで、二人は酒を酌み交わし、仲なおりして、仲むづまじく、今に至るまで宮居に鎮まっています。これらの歌を神がたり歌といっています。
 オオクニヌシを中心にした場合、この「神語」が、素戔鳴尊の系譜と大国主神の系譜との間に挟まれ、大国主(偉大な国の王)実現の物語を語っています。
 いずれにしても、@からBは『古事記』のみにあり、『日本書紀』には見られません。その意味で、大国主神という名称は、国土完成にいたる神話の主として、『古事記』のみで機能しています。

(左)鳥居ごしに拝殿と本殿をのぞむ (右)祈りを捧げる大国主命
 

C  オオクニヌシには六人の妻があり、そのうちタギリヒメ(多記理比売)は、アジスキタカネヒコ(阿遅志貴高根比古)を生み、ミホツヒメ(三穂津比売)はコトシロヌシ(事代主神)を、ヌナカワヒメはタケミナカタヌシ(建御名方)を生んでいます。
 「大国主神、出雲の御大之御前ミホノミサキに坐す時に、波の穂より、天之羅摩船アメノカガリノフネに乗りて、蛾ヒムキの皮を内剥ウチハギに剥ぎて、衣服にして帰ヨり来る神あり。」オオクニヌシは名を聞いたが答えず、誰に聞いても知らないと云われました。するとオオクニヌシの前にヒキガエルが現われ、「これは久延毘古クエビコに聞けばわかるでしょう」といいました。クエビコを早速呼んで尋ねると、「これは神産巣日神カミムスビの御子、少名毘古那神スクナビコナカミです」と答えました。そこで、オオクニヌシは、カミムスビノカミに申し上げると、「此れは実マコトに我が子也。子の中に、我が手股タナマタよりくしき子也。故汝葦原色許男命(オオクニヌシの別名)と、兄弟と為りて、その国作り堅めよと答告りたまいき。」
 こうしてオオクニヌシとスクナヒコナの二神は、心を一つにして国づくりにはげみました。ところが、スクナヒコナは国づくりが終わらないうちに、海のかなたの常世の国に渡ってしまいます。オオクニヌシは力を落とし、「吾独ヒトリして何イカでかもこの国を得作らん」と考えていると、海上を照らしながら、岸辺に近寄ってくる神がありました。「その神の言り給はく、我が前ミマエを能く治めては、吾共与アレトモトモに相作り成してん。若し然らずば、国成り難てましとのりたまひき。」
 その神は、国づくりに協力するから、祭りをしてくれと、オオクニヌシにいいました。それで、どのように祭れば良いかと尋ねると、その神は大和の国の青々と垣にように茂った東の山の上に祭ればよいといいます。これが御諸の山に鎮座する神(大神神社の祭神)であります。
D  オオクニヌシがこのように国づくりしているとき、高天原でアマテラスは、「豊葦原の、千秋ちあきの長五百ながいほ秋の水穂国は、我が御子正勝吾勝勝速日天忍穂耳マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ命の知らさむ国と、言因コトヨさし賜ひて、天降したまひき。」と、神々に図ります。
 そこで、アメノオシホミミ(天忍穂耳)が高天原と、葦原の中国との間にかかっている天の浮き橋に立って、中つ国を見ると、ひどく騒がしいので高天原に戻って、アマテラスに報告をします。
 アマテラスは天の安川に神々を集め会議を開き、アメノホヒ(天穂日)が使者となって、中つ国に降ることになりました。ところがアメノホヒはオオクニヌシに懐柔され、3年たっても復命はありません。次いで、アメノワカヒコ(天稚比古)が遣わされますが、これもオオクニヌシの娘、シタテルヒメ(下光比売)を妻として8年たっても帰ってきません。このアメノワカヒコは、高天原からの通し矢にあたって殺されてしまいます。
 次に、タケミカヅチ(建御雷)が選ばれ、副使としてアメノトリフネ(天之鳥船)が付けられました。この神は、出雲国の伊那佐の小浜に降りつくと、十拳剣とつかのつるぎを抜いて浪の穂に逆に刺し立て、その前に胡坐をかいて、オオクニヌシに国土献上の談判をしました。
(左)大国主神と須勢理比売 (右)出雲大社神郷図(拡大)
 
   オオクニヌシは、御大ミホの前に行っているコトシロヌシに相談をしなければならないというと、アメノトリフネが船で迎えに行き、つれて帰ってきました。
 コトシロヌシは、今はこれまでと、「この国は、アマテラスの御子に奉りなさい」といって、その船を踏み傾け、天逆手をうって、これを青い生け垣のようにとりかこませて、その中に引き込んでしまいました。(美保関町の美保神社の祭神は事代主神です)。
 オオクニヌシのもう一人の子タケミナカタ(建御名方)は、国譲りの話を聞くと、千引石を軽く両手で差し上げて、「誰ぞわが国に来て、忍び忍び如此物カクモノ言ふ。然らば力競為む」と、いってタケミカヅチの手をとると、その手はたちどころに氷柱となり、また白刃となりました。
 こんどはタケミカヅチがタケミナカタの手をとり、まるで若い葦をつかむように、つかみひしぎて投げ捨てました。
 そこで、タケミナカタは逃げますが、のがさじとタケミカヅチは信濃の州羽海(諏訪湖)まで追いつめ、捕まえて殺そうとしたとき、タケミナカタは、「恐カシコし、我をな殺したまひそ。此の地を除きては、他処に行かじ。亦我が父大国主神の命に違はじ。八重事代主神の言に違はじ。此の葦原中国は、天神御子アマカミノミコの命の随献マニマニタテマツらむ」と、いって帰順を誓いました。
州羽海でタケミナカタを屈服させたタケミカヅチは、出雲に帰ってきて、オオクニヌシにあなたの二人の息子は服従させたが、「汝が心奈何にぞ」とつめ寄ります。
 オオクニヌシは、国土は献上するから、天神の子が住む御殿と同じようなものをつくってほしい、と答え、幽冥の世界に隠れ去りました。
 それで、多芸志タカシの小浜に、神殿がつくられました。それは、
「底津石根ソコツイワネに、宮柱ふとしり、高天原に、氷木ヒギたかしりて、……」という、きわめて大きな木造の建物でありました。『日本書紀』も、
「千尋の栲綱タクヅヌを以て結ひて、百八十級モモムスビアマリヤソムスビにせん、その宮を造る制リは、柱は即ち高く太く、板は即ち広く厚くせん。とつたえました。」これが出雲大社の起源であります。
 『古事記』や『日本書紀』に記されているオオクニヌシは、特定の神ではなく、国家意識が生まれたときに、国の主≠ニして観念されてきた神で、その国の主≠ニしての大国主と、出雲のオオナムチ神や三輪山のオオモノヌシ神が同一視された結果、今日の神名の形になってきました。
 
【出雲大社】
 
 『日本書紀』に天日隅アメノヒスミノ宮、『出雲風土記』には天日栖アメノヒスミノ宮、所造天下大神之アメノシタツクラシシオオカミノ宮として登場しています。
 『延喜式』神名帳には杵築キズキ大社とみえ、長くこの名で呼ばれていました。明治4年(1871)に出雲大社と改称されました。
 創祀は、『古事記』や『日本書紀』などによると、大国主神は須佐之男尊の子(6世の孫)で、葦原中つ国の国造りにあたり、やがて天孫瓊瓊杵ニニギ尊の降臨のとき、国土を譲って出雲国多芸志の浜に身を隠しました。
 大国主神の国譲りを喜んだ天照大神は、天日隅宮を建て、その子の天穂日命を祖とする出雲国造家が、連綿として祭祀を継承しています。
 『延喜式』に名神大社として唯一大社に列し、出雲国一ノ宮として朝廷の崇敬が厚く、貞観9年(867)に正二位の神階を受けて、鎌倉中期以降には12郷7浦の広大な社領を有していました。現在の本殿は大社造りの名で呼ばれ、伊勢神宮の神明造りとともに古典的神社建築様式を伝え国宝に指定されています。
 境内は、約16万u、本殿を中心に、拝殿、東西十九社、宝物館、摂社8社、末社3社などが配されています。
 祭礼は、5月14日からの大祭礼をはじめ、神在祭、古伝新嘗祭など年間72におよび、古代以来の祭儀を伝え行っています。
 社伝によると出雲大社の本殿の高さは、上古32丈(96m)、中古16丈(48m)であったと
記しています。江戸中期造営の現在の本殿は8丈(24m)であります。96mの社殿は建築上不可能で、48mにも疑問符が付けられていました。ところが平成12年4月、境内の発掘調査の結果、巨大な柱が発見されました。これが出雲国造千家家に伝わる「金輪御造営差図」にある、3本の巨大な杉を鉄の輪で引き締めて柱とした宇豆柱(棟持柱)であることが判明しました。また、同年10月には、同じ構造を持つ柱(心御柱と南東側柱)がさらに二ヶ所から発見されました。それにより48mの巨大神殿の存在
が浮上しました。
 平安時代の漢詩人・源為憲の漢字研究書『口遊クチズサミ』に「雲大・和二・京三」とあり、その注釈に巨大建造物は出雲大社が第一で、二番は奈良東大寺大仏殿、それに次ぐのが京都御所の大極殿とあります。15丈の大仏殿より高いのなら、16丈=48mの本殿は現実味を感じます。
 

(上)出雲大社復元図 福山敏男作図(拡大)
(中・下) 発掘された心御柱
 

【出雲の神】
 
 出雲は、『古事記』や『日本書紀』の神話に、天上の神々の国・高天原に対して葦原中つ国と呼ばれた日本の国土を代表とする場所として、登場します。そして、葦原中つ国の主宰者として語られているのが、出雲大社に祀られている大国主神であります。
 大国主神は、別名として、大穴牟遅神(大己貴神)、大物主神、大国玉神(大国主大神)など多数の名を持っていますが、それぞれの神名には、「偉大なる国の主(大国主)」、「偉大なる地主の神(大穴牟遅神)」、「偉大なる神霊の主(大物主)」、「国土に宿る偉大なる魂(大国玉)」といった意味を持ち、この神の基本的な性格が示されています。
 神話によれば、大国主神は、天之冬衣神アメノフユキヌノカミと刺国若比売サシクニワカヒメの間に生まれた神で、若い頃に兄弟たちの過酷ないじめによって、二度にわたって殺され、そのたびに母神の力により再生をとげたとされています。
 二度目に再生したとき、大国主神は、紀伊国の大屋比古神の勧めによって地底の国である根堅洲国ネノカタスクニに赴き、須佐之男尊の娘の須勢理比売スセリヒメと結ばれます。
 その後、須佐之男尊が与えた試練に耐えて、生太刀・生弓矢・天の詔琴を手に葦原中つ国に戻った大国主神は、混乱していた国の平定を成し遂げ、さらに小彦名神とともに国土開拓を進め、葦原中つ国に君臨しました。
 ところが、高天原から葦原中つ国を天孫瓊瓊杵尊に譲り渡すように求められると、それに従って国土の支配権を天孫に譲り渡し、自らは霊魂の赴く幽冥界の主宰者となりました。
 このような神話には、大国主神が葦原中つ国の主宰者であるとともに、二度の死と再生の物語や根堅洲国への訪問、幽冥界の神など、生命を育み蘇らせる神でもあることが、示されています。
 歴史的には、中世以降大黒天と習合し、縁結びの神としても崇敬されましたが、神話に描かれた性格は、現代に至るまで中心的なものとして受け継がれてきました。しばしば共に国土開拓を行った少彦名神とともに、国土開拓の神として祀られるほか、生命の再生と関わる医薬・医療の神として祀られています。

【神・神社とその祭神】《そのX》完 つづく


編集:山口須美男 メールはこちらから。

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